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第62話
優志が事務所へ呼ばれた三日程前の事。
玄関のチャイムが鳴り、樹はキーボードを叩く手を止め椅子から立ち上がった。丁度休憩を入れようと思っていたところだ、約束の時間まで少し早かったが来客は連載雑誌の担当者だろう。
チェーンを外し、来客を確かめないまま樹はドアを開けた。
「こんにちは」
「……?」
立っていたのは予想していた人物ではなく、見た事のない男だったので、誰かを確かめなかった事を後悔した。
同年代と見られる男は黒のダウンジャケットにジーパンとラフな格好をしている。にこりと笑った顔は胡散臭そうで、親しみは湧かない。顎から頬に掛けては薄っすらと無精ひげが生え、髪も手入れがされてなさそうだ。これで服装が汚ければ浮浪者かと思ってしまうことろだ。
「守川樹さんですよね?」
「そうだけど、貴方は?」
「突然すみません、こういう者です」
予め仕舞っておいたのかダウンジャケットのポケットから名刺を取り出すと、樹の胸の高さへ差し出してきた。
胡乱な視線で目の前の人物を見てから、名刺に視線を落とす。
「中土井康太 ?」
肩書きも会社名もない。連絡先と思しき電話番号とメールアドレスの書かれたそれを見て樹は不審げに眉を寄せた。
嫌な予感がする。
「フリーのカメラマンです」
「……そう、で、何か御用ですか?」
「妹さんの事でちょっと」
「……そういう事なら私が話せる事は何もありません、お引取り下さい」
「見て頂きたい写真があるんです」
迷惑そうな顔をしても、中土井は愛想笑いを浮かべたまま肩から提げた黒いカメラケースの中から写真を取り出した。
数枚あるそれを無言で差し出してくる。樹は見たくはなかったが、差し出されてしまったので仕方なくそれを受け取った。
「……これは?」
「ご存知ですよね、この青年」
「……」
写真はこのマンションの出入り口を写したもので、そこには優志の姿を捉えたものと、美月のものと、そして場所は分からないが二人だけで写っているものと三枚あった。
「兄である貴方の部屋で会っている、という事は公認の仲、という事なんですね?」
「何を言ってるんだ、そんな訳ないだろう」
「誤魔化さないで下さい、外で二人で会ってたのはその現場しか抑えられなかったけれど、この部屋にはちょくちょく顔を出している、そうですよね」
「この部屋にいたのは偶然だ」
「では、この部屋にいたのは偶然としましょう、でも外で二人だけで会っていたというのはどうでしょう?交際しているという事の証明になりませんか?」
「ならないだろう」
「そうですかね」
人を喰ったような笑顔が気に入らない。やはり悪い予感は当たったようだ、だが、追い払わずに良かったと樹は思った。
「この写真をどうする気だ?」
「どうするって……一つしかないじゃないですか」
「出版社か新聞社に売り込む気か?」
「兄である貴方の証言付きでね」
「何だと?!」
気色ばんだ樹を宥めるように、中土井は両手を広げ、まぁまぁと抑えるような仕草をした。
「落ち着いて下さい、では今日のところは退散する事にしましょう、また日を改めて窺います」
「待て、どこに持ち込む気だ」
「そんな事、教えられる筈がないでしょう」
写真は何枚もあるのか、中土井は回収しようとはしなかった。その余裕な態度に樹は不安を煽られた、このままではいけない、そう思い去ろうとした中土井の腕を掴み引き止める。
「待てよ、幾らならそれをオレに売ってくれるんだ?!」
「貴方がこの写真を?」
「そうだ」
二人は暫し無言で睨み合った。腕はもう離されている、中土井が帰らないだろうと踏んだからだ。
「中に入ってくれ、ここでする話でもない」
「……分かりました」
不敵に笑う中土井を忌々しそうに睨みつけ、樹は部屋の中へと導いた。
***
話は現在の江戸川家に戻る。
兄が帰ってきて間もなく父も帰って来た。三人分の寿司を買ってきたので、それが夕飯になった。
重苦しい沈黙の中食べる寿司は好物にも関わらず、酷く味気ないものだった。片付けが終わり、優志がお茶を淹れリビングへ戻ると本題に入るように父が重い口を開いた。
「そこへ座りなさい」
「……」
心配そうな表情の兄の隣りへ座る、父は向かいのソファーに座っていた。厳しい表情のままで父は息子を見つめた。
「どうしてあんな事になった」
「……どうしてって……」
「相手が誰だか分かっているのか?」
「分かっているよ……無用心だったと思ってる、だけど、オレは美月ちゃんと付き合っている訳ではなくて……」
「付き合っている、付き合っていないではない、二人きりで外で会うという事にどんなリスクが付いてくるか分からなかった訳ではないだろう」
「……」
正論なので、優志は黙って頷いた。父の言っている事は尤もで、自分だって万一という事を考えなかった訳でもない。
だけど、あの時はそこまで深く考えなかったのだ。二人きり、というのがいけなかった。まだ打ち上げ会場でなら、言い訳の仕様もあったのに。
「お前は何の為に俳優になったんだ?アイドルと付き合う為か?」
「違うよ!」
「浮ついているからこんな事になるんだ、いい加減自覚しろ」
「……分かってるよ」
「分かってない、お前は自分がどんな立場か分かってない」
「……父さん……」
父の言っている事が分からず、優志は俯いていた顔を上げた。そこには思いがけず、真摯な眼差しでこちらを見ている父の姿があった。
「まだ一人前とは言い難いが、それでもお前は役者なんだろう?自分一人の問題じゃない、事務所にも迷惑をかける。相手のある事だ、相手の事務所にも迷惑な話だ。それともお前はこうやって名を売りたかったのか?」
「違う!そんな事考えた事もないよ!」
「……だったら、自覚しろ、お前が選んだ仕事だ、その仕事に支障が出る事だってあるんだ、自分の行動に責任を持て、この家を出てまでやりたいと願ったのが役者なんだろう」
「……うん……」
「……親として出来る事はした、別に心配しなくてももう辞めろとは言わん……」
「え……?」
さっきまでの厳しい表情は消え、少しだけ照れたような、それを隠すように鹿爪らしい顔の父はそれだけ言うとソファーから立ち上がった。
「まだ仕事を残してきている、社に戻る」
「え?あ、あの……」
優志は慌てて立ち上がった。まだ、言うべき事を言ってなかった。
「ありがとう……父さん」
真正面から見つめて話すのなんていつぶりだろうか。少しだけ低く視線を落としながらいつの間に父の身長を越えていたのだろう、と考えた。
何も言わずにリビングを出て行く父を見つめ、その背中にもう一度ありがとうと心の中で感謝の気持ちを伝えた。
「……はぁ……」
緊張していた肩の荷が落ち、ソファーへ身体を沈めた。
「……こんなところでお前を潰したくないって思ってくれたんだよ」
「……うん……」
「お前は知らないだろうけど、父さん観に行ったんだぞ、舞台の初日に」
「え?!」
「この間の凱旋公演も行ったしな、あれでもお前の事、応援しているんだよ」
「……反対、されてると思ってた……」
「反対はするさ、心配だからな……だけど、反対していたって、応援しない親はいないだろう……」
「……そっか……」
ずっと予備校へ通う事を、大学へ進む事を望んでいるのだと思ったいた。自分の選んだ道を否定しているのだと思っていた。
反対はしても、応援はしてくれていた。そして自分の選らんだ道を否定せず、後押ししてくれていたのだ。
……退路を守っていてくれていたのだ、気付かなかっただけで……。
「多分お前には言わないつもりだろうから、お前もそのつもりで聞いてくれ」
「……何?」
「親として出来る事はした、っていうのは写真の件をもみ消したって事だ……その意味が分かるか?」
「……?」
兄の言っている意味が分からず、優志は首を傾げた。兄は躊躇いながらも続けた。
「……写真を買い取ったんだ……美月さんの分を守川先生が、そしてお前の分を父さんがな」
「買い取った?!」
「そうだ、先生から連絡を受けてな……美月さんの事務所には知らせずにうちに連絡をくれたんだ……先生にもちゃんと礼を言うんだぞ」
「……お金……幾らかかったの?」
「金額は聞いてない、ただ売り込んだ場合の倍は払ったんじゃないかと思う」
「そんな……」
相場が幾らなのか見当も付かないが、一万や二万の話ではないだろう、きっと桁が一つか場合によっては二つ位違う筈だ。兄は青ざめた優志の様子を見て、静かに、言い聞かせるような口調で語った。
「お前の将来を考えての事だ、だからこれからは気をつけろよ、自覚しろっていうのは芸能人だっていう事を自覚しろって事だぞ、そして社会人という自覚だ」
「……うん……」
「……これからも続けていくなら尚の事だ、きっともう父さんもお前に大学へ行けなどとは言わないよ」
「……うん」
「お前も父さんも頑固だからな、意地張ってお互いの意見を聞いたりしなかっただろうけど、これからはもう少し素直になれ、オレ達は何があったって優志の味方なんだから」
「うん……ありがとう……」
兄の手が伸び、優志の頭を優しく撫でた。幼子にするようなその仕草がくすぐったく、だがそれでも嬉しくて、泣きそうな気持ちのまま小さく笑った。
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