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第63話

 あれから一週間が過ぎた。3月に入ったが、まだまだ寒い日は続いている。春の声はまだ聞けそうもなかった。  久しぶりの訪問に優志は極限まで緊張していた。震えそうになる指を伸ばし、ドアチャイムを押す。  慣れた筈の道すがら、ずっと話す内容を整理していたのにいざ扉の前に立ったら頭の中が真っ白になってしまった。  チャイムの音が途切れ、暫く待っているとドアチェーンを外す音が聞こえた。 「……何しに来た」 「……樹さん……」  いつになく険しい表情で立つ樹に、成す術もなく呆然と見つめる。怒っているとは思っていたが、予想以上だ。 「本当、すみませんでした……」 「また写真でも撮られたらどうする、早く帰れ」 「直ぐ帰ります、だから少しだけ話をさせて……」 「帰れ」 「一分だけでいいから!」 「……とにかく中に入れよ」 「……うん……」  優志の必死さに折れた形で部屋の中へ入れてくれた。だが、靴は脱がず優志は玄関の中でもう一度樹に謝罪の言葉を述べ、深く頭を下げた。 「本当にすみませんでした」 「……ここには二度と来るな」 「……はい……」 「今はまだ認める気にはなれない」 「……違う……誤解だよ……!」  顔を上げた優志が見た樹の顔は、先程の険しさは消え、どこか泣きそうで、痛みを我慢しているような表情だった。  そんな顔させたくないのに。辛い表情なんてさせたくないのに。 「美月ちゃんとの事は誤解……だけど、写真を撮られたのは本当に自分の不注意でした……本当に申し訳ない事をしたと思ってる……あの……お金は、直ぐに払えないかもだけど、絶対返します」 「……そんな事はもういい」 「よくないよ……返します、迷惑掛けてすみませんでした……」 「お前は……美月の事、どう想っているんだよ」  まだ誤解したままなのか、樹の表情が晴れる事はない。手を伸ばせば触れる距離にいるというのに、樹の心が遠いと思った。  悲しくなりながら、これがきっと樹との最後なのだと優志は覚悟を決める事にした。 「……友達だよ……」 「美月の気持ちはどうなる」 「美月ちゃんが好きなのはオレじゃないよ…!」  樹が息を呑む、それ程の気迫が優志からは感じられた。気持ちを振り絞るように、気持ちに負けないように、樹から目を逸らさず優志は告白した。 「……そして、オレが好きなのは……樹さんだよ……」  樹の瞳が大きく見開かれる。眼鏡の奥の瞳に写る自分はこれで最後だ、だったら笑顔で別れたかったのにそうもいかなそうだ。 「ずっと、ずっと、出会ってからずっと、樹さんが好き………」  だけど、分かっているから。この気持ちを成就させようなんて思ってないから。 「お金はちゃんと返します、ここにも、二度と……ううん、樹さんと美月ちゃんとは二度と会わない、例え会っても知らない振りをします」  だから、これだけは、お願いします。本当は二つあるんだ、だけど一つだけでいいから。口に出来るのはそれしかないから。 「……本当にすみませんでした、もう迷惑掛けません……もう、二度と……でも……ファンでいさせて下さい、守川樹先生のファンでいさせて下さい……」  涙が零れないように、上を向いて。もう樹の顔もまともに見えない位に視界は滲んでしまったけれど、それでも上を向いて。 「お願いします……」  ずっと、好きでいたい。それは、お願いしないから。想いはちゃんと断ち切るから、直ぐには無理だけど、いつかちゃんと、忘れるから。  だから、それだけはお願い。 「……オレ達とはもう関係ない、そういう事だな」 「うん……」 「話が済んだのなら帰れ、オレが話す事はない」 「……うん……すみませんでした……そして、本当にありがとうございました……」  最後に深く頭を下げ、見上げた樹の顔には何の感情も浮かんでいなかった。それは言葉通り、関係ない、という事なのだろう。  気持ちと一緒で崩れそうになる体を支え、優志は玄関から出て静かに扉を閉めた。  これで最後、そう思うと今までの樹との思い出が走馬灯のように頭の中を駆巡る。どれもこれも、樹にとって他愛ない事だったとしても、優志には掛け替えのない思い出だ。  それも全部忘れなければいけないのだろう。もう想う事は出来ないのだから。  お金だけは返さなければ。そして返済が終われば、全てが終わる。  ……どっちにしろ、もう終わりにしなきゃって思っていたんだ。ただ、最悪な終わり方になったというだけで。  涙を拭い、マンションから出る頃には優志の表情は普段のものとなっていた。念の為辺りを窺うが、不審な動きはなさそうだ。  また写真を撮られたなんて事になったら、樹にも父にも申し開き出来ない。  無表情を張り付かせたまま駅に向かい、なるべく樹の事は思い返さないようにしながら自分の部屋へ帰る。思ったが最後、仮面は剥がれ自分はきっと泣き崩れてしまうから。  それは誰もいない、自分の部屋でしか出来ない。今日だけは、泣いてもいいだろう。思い出と共に。

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