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第64話
優志を見送りもせず、樹は廊下に立ち尽くしていた。その背中に厳しい声が掛かった。
「どうして追いかけないのよ……!」
だが樹は答えない。言い返さない兄に苛立ったように、美月は声を荒げた。
「優志君、行っちゃうじゃない!何で追いかけないのよ!!」
「……美月」
振返った樹の顔を見て、兄が怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、もう全て諦め終わりにしたのだという事を知り、美月は益々声を上げた。
「お兄ちゃんまだ誤解してるの?!何回も言ってるけど、優志君とは何でもないんだよ?!」
「……落ち着け、美月」
「優志君の話聞いてた?優志君が好きなのはお兄ちゃんなんだよ!何で追いかけないのよ!」
「……」
腐女子思考で物を考えるなと言いたかったが、美月の表情は真剣そのものだ。茶化すような気配はなく、純粋に怒っているようだ。
「最初は私が写真撮られて、お兄ちゃん優志君に焼もちやいてるんだって思った、だから怒ってるんだって……でもそうじゃないでしょ?お兄ちゃん、私に優志君取られたと思ったんでしょ」
「……何を言ってるんだ」
「私が優志君を好きだから、自分は身を引こうと思ったんでしょ?だからお金も出してくれた、記事を揉み消した、私の為じゃなくて優志君の為でしょ?」
「……美月」
「私の事務所に連絡しなかったのだって、優志君の事を考えたからでしょ……?優志君の所は小さい事務所だから……うちみたいな大手から睨まれたら仕事に影響だってあるかもしれない、優志君の将来がダメになってしまうかもしれないって、そう思ったからでしょ?」
何を言い返しても無駄だと思い、樹は美月の言い分を聞く事にした。そんな態度も美月にとっては、気に障るらしく、気持ちを落ち着けるどころか乱れるばかりだ。
「どうして好きなら好きって言わないの?!どうして、好きって言っちゃいけないの……?!」
涙さえ浮かべ必死に兄を説得しようとする妹の姿に、樹は心を痛めた。だが、それを表情には出さず、極力柔らかい声で宥めるように説いた。
「美月、ダーツを卒業するとはいえお前はまだアイドルなんだ、優志の事は今は忘れろ、これからだって恋愛は出来るんだから……」
「私が好きなのは優志君じゃないよ!」
「……美月、別に誤魔化さなくても……」
「誤魔化してないよ、誤魔化してるのはお兄ちゃんでしょ?私にも、自分にもそう言って誤魔化して、嘘ついて……どうして?好きなら好きって言えるのに、どうして言わないの?!どうしてなのよ!!」
「……お前はアイドルだろ……?同じように優志にも立場がある……」
「…スキャンダルが怖いから?優志君の為だから?だから身を引くの?」
「……」
対峙する二人の顔は両極端だった。一人は諦め、一人は諦めず戦おうとしている。樹には美月の心が分からず、ただ黙って妹の言い分を聞くだけだ。
「どうして、好きな人と恋愛しちゃいけないの……!!」
「……美月……?」
「どうしてダメなの……なんで、普通の人がみんなしてる事しちゃいけないの……?好きになっちゃいけないなんて、酷い……」
美月は腕を折り、樹の胸をぽかりと叩いた。どうして、そう叫びながら何度も何度も。強くもないその攻撃に痛みはなかったが、叩く度に美月の顔が歪み、言葉は嗚咽に代わった。
「……美月……」
涙は頬を伝い顎からぽたぽたと床へと落ちる。こんな風に妹に泣かれるのは小さな子供の頃以来で、樹は純粋に困ってしまった。
宥めるように肩を叩くが、嗚咽はやみそうもなかった。泣かせたかった訳ではなかったのに、途方に暮れるような気持ちのままで零れる涙を見つめた。
「……私は写真撮られてもよかったのよ……」
「……美月?何を……」
「……それでもよかった……私は……選んだから……」
真っ直ぐに見つめてくる美月の瞳は濡れてはいたが、思いのほか強い光が宿っている。
「だから、諦めないでよ、好きだったら諦めないでよ、追いかけてよ、なんで守ろうとしないのよ!逃げてるだけじゃない!!」
それは正に図星で、だけどもうどうしようもない事だと思っていた。逃げているのだ、そんな事言われずとも本当は分かっていた。
逃げて、諦めて、去っていくのをただ見ている。立ち向かい守ろうなど思わなかった、ただ簡単な方に逃げてしまった。
後悔してない、といえば嘘になるが、だがどうすれば良かったのか。何が正しくて、何が間違いなのかもう分からなくなっていた。
多分、だから逃げたのだ。放り出してしまったと言ってもいい。
「……だから私は……選んだの……諦めたくないから」
消え入りそうな位に細い声だった、だけど、そこからは強い意志が感じられた。
「だから、お兄ちゃんも選んで……好きなら離さないで、諦めたりしないで……」
泣き崩れた美月の肩を抱き、それでも樹は妹に掛ける言葉を見失っていた。
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