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第67話

 GWが終わり朝晩の冷え込みもなくなった5月中旬、優志はマネージャーの岩根に呼ばれ事務所へ来ていた。  忙しいという毎日ではなかったが、仕事は順調に入ってきていた。今は深夜ドラマに端役ではあるがレギュラー出演している。そのロケが朝まであったので、打ち合わせは午後からだった。  若干の眠気はまだあったが、電車に乗り事務所の入っているマンションに向かう頃には大分気分もしゃきっとしていた。  太陽の照りつけは夏の日差しのようにギラギラと暑く、歩いているだけで汗が額に滲んでくる程だった。  事務所に着くとまず冷蔵庫から麦茶を貰い、喉を潤してから打ち合わせに入った。 「今日は優志にお客様が来るのよ」 「……お客様?」 「そう、仕事の依頼よ」 「え……?!」  岩根の顔は明るく、上機嫌な様子で話しかけてくる。余程内容の良い仕事なのか、ギャラが良いのか分からないがテンションの高さから見てその両方かもしれない。  スズシロ企画はモデル、俳優を10人程抱える小さな事務所だ。常に仕事が入ってくるような安定した事務所ではなく、社長をはじめマネージャー達も苦労が多いようだ。  アクターズ出演が決まった時のような岩根の表情に、優志は少しだけ期待した。事務所が少しでも楽になるのも嬉しいし、自分の夢に一歩でも近付けるような仕事が入るのも嬉しい。  待ち合わせの時間は14時だという。そろそろその時間だ、優志は先に応接室で待つように指示された。  応接室は革張りの二人掛けのソファーがテーブルを挟んで向き合い、壁にはオーディオラックが置かれその上にテレビ、下の棚には所属俳優出演のDVDなどが並んでいる。  今更だが自分の格好を見て、これでよかったのだろうかと一抹の不安が過ぎる。  自由業なので仕事の打ち合わせだからといって必ずしもスーツ必須という訳でもないが、今日の格好はラフ過ぎた。  鮮やかな黄色のプリントティーシャツに、所々擦り切れたダメージジーンズ。髪色も深夜ドラマの役がホストなので、それに合わせ金髪にしている。  コンビニの面接すら受かりそうもない格好だ……。企業CMとかの依頼だったらどうしよう……でも着替えろとも言われなかったら大丈夫だろうか。  やはり着替えてこようか、と思い腰を浮かせた所でドアがノックされた。優志は中途半端な体勢のままドアが開くのを見ていた。 「遅くなってしまい、すみません」 「大丈夫ですよ、外は暑かったでしょう」  ドアを開けたのは社長だった。それに続いて30代前半位のスーツ姿の男が入ってくる。優志は慌てて姿勢を正し、席を譲るようにソファーから立ち退いた。 「こちらへどうぞ」  二人が入りきり、三人目が入室する。「失礼します」の声と共に入ってきた人物に、まさかと目を瞠る。 「いつきさん……?」  唇は形を作ったが、声にはならなかった。濃紺のスーツに身を包んだ樹は、相変わらず立っているだけでスーツのCMに出演出来そうなほど見目が良い。  長めだった髪は切ったのか、前に見た時よりも短くなっていてそれが実年齢より若く見せていた。  優志に気付いた樹は目だけで会釈をしてきた。そこには最後に見た険しい色はなく、近しい者への親しみを湛えていて、優志の心は大海原に浮かぶ小船のようにゆらゆらと揺れた。 「優志、ぼうっとしてないで、こちらへ」 「……はい」  いつの間にかマネージャーの岩根も入室していた。既に樹ら客と社長の前にはアイスティーらしきものが入ったグラスが置かれているところを見ると、優志が呆然としている間に岩根が用意していたらしい。  優志が座るのを待ち、最初に入ってきたサラリーマン風の男が口を開いた。 「はじめまして、浅生憲明(あそう のりあき)です。今は休職中の身なので名刺はないのですが……今回の監督を務めさせて貰います」 「……?」  ぽかんとしている優志に、正面に座った樹が助け船を出す。 「優志に映画に出て貰いたいんだ」 「……映画……?」  樹を、それから社長とマネージャーを見ると、そうだ、という風に頷いている。どうやらスズシロ企画側は内容を把握し、しかも承諾しているようだ。  だがまだ話に付いていけない優志は、一人戸惑いを浮かべたままでいた。 「オレが脚本を書いて、憲明が監督、そして主演は二人いて、内一人はオレの友達……三人とも同級生なんだけどな、そしてもう一人の主演が優志、お前だ」 「……オレが……?」 「今日は完成した原作をお持ちしました。脚本を書くのはまだこれからです、自分自身初めての事ですし、直ぐには書きあがらないとは思いますが、撮影のスケジュールには間に合わせるように書けると思います」  樹は持参した茶封筒を優志に手渡した。厚みのある封筒の中を覗けば、紙の束が入っている。  いまだ信じられない気持ちのまま、優志の上を四人の会話が飛び越えていく。取り残された優志はまだ呆然としたまま、その遣り取りを聞いていた。 「スケジュールは江戸川君の仕事を優先させて貰います、こちらはどうとでも出来ますので」 「一度他のスタッフやキャストを交えた顔合わせを……」 「機材の件ですが……」 「ロケ地もまだ選考段階で……」 「それでは、また後日打ち合わせの時間を設けさせていただきます」  社長の声にはっとして顔を上げる。会話は四人だけで進み、置いていかれた優志は話がどう進んだのか把握出来ていなかった。だが、それでもいいと思っていた。

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