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第68話

 四人が腰を上げ、にこやかに別れの挨拶が交わされている。優志は表情を隠し、口を開いた。 「その話、お断りさせていただきます」 「……優志?」 「……申し訳ありません……」 「優志、どうしてそんな事……」  水を差すような事を言う優志を非難しているというよりは、断った事に困惑したように岩根は社長と視線を交わし合った。 「……すみません……」  話は聞いていなかったが、もしかしたら破格のギャラなのかもしれない。いや、主演という時点で破格だ。それに知名度を上げるチャンスなのかもしれない。  だけど、自分にはこの仕事を最後まで務めあげる事が出来るとはどうしても思えない。  そして、約束をしたのだ。樹だってきっと実際は迷惑なのではないか、そう思っている。樹が辞められないのなら、自分が降りればいいだけの事。 「優志と少し話をさせてもらえませんか?」 「……分かりました、では先生にお願い致します」  樹が頷き掛けると、憲明は先に行っていると言って部屋を出た。スズシロ企画側の二人も心配そうな視線を寄越しはしたが、樹に任せるつもりなのかその場には優志と樹の二人だけが残った。  立っていた樹は優志の向かいに座り直した。それを見て優志は受け取った封筒を樹の方へ押しやる。 「……何が気に入らない?」  顔を上げず、自分の膝に置いた手の甲に視線を落としながら優志は小さく首を振った。 「全部、という事か?」  そうではないと、もう一度首を振る。樹だって分かっているだろう、そう言いたかったが声にはならなかった。 「……確かに、興行が出来るような映画じゃない、スポンサー企業もないから経費の面で事務所にも負担を掛ける事になると思う、お前へのギャラの支払いもどうなるか分からない……コンペ用の作品だから……」 「お話は大変ありがたいのですが、自分には相応しくないと思います」 「……相応しいか、相応しくないか……まだ話を読んでいないのに決められるのか?」 「……」  本当は今すぐにでも樹の書いた物を読みたい。それが演じられるのだったら、どんな役だって喜んで演じるのに。  だけど、樹の書いた物だからこそ自分が出てしまってはいけないのだ。もう二度と会わないと約束した。この先知らない振りをして生きていかなければならないのに。  どうして自分を選んだりしたのだろう。もう、関係ないと言われたのに。  どうして、忘れさせてくれないのだろう。 「話を読んでから決めてくれ、読んだ上で断るというのならオレも納得出来る、だから読むだけ読んでくれ」  「……」  説得するような熱の籠もった口調に心は傾きそうになる。だけど、どうしても樹の本心が分からず優志は俯いたまま口を閉ざす。  暫しの沈黙が流れたが、諦めた訳ではないのか、樹が再び口を開いた。 「美月がな、夢を叶えたって言ってたぞ」 「……?」  思わず顔を上げてしまった。樹の表情は穏やかで、微かに浮かべる笑みは一抹の寂しさが感じられた。 「あいつな……卒業式に好きな人に告白したい、っていう……何ていうか……女子中学生?いや、小学生か?そんな少女漫画みたいな夢持ってたんだとさ……オレは知らなくてな……」  思い返しているのか、樹は遠くを見つめるような瞳をした。やはり寂しそうだ、妹離れをしなければならなくなった兄の顔だった。 「高校は女子校で、その頃からダーツに入っていたから恋愛なんて出来なかっただろ?だから余計なのかもな、そんな少女漫画みたいな夢をずっと持っててさ、夢とかいうからもっと有名になりたい、とかなんか大きなもんかと思ってたよ……」 「……」 「……卒業公演の後、告白した……そう言ってきた……オレはまだ認めてはいないけどな……だけど、美月、本当に嬉しそうにさ……何か、枷が外れたみたいに軽くなったっていうか……そんなの見るとさ、無理させてたんだなって思ってな……」  認めてはいない、という所は苦々しげだ。やはりどこまでもシスコンのようだ。 「でも、夢が叶ってよかったなって思う、オレは何もしてやれなかった……だけどな、美月はオレの背中を押してくれた……後悔したくないなら、諦めないでって……だから優志」  樹は封筒を手に取ると、もう一度優志の前へと押し進める。もうそれを拒む気は優志にはなかった。だが、まだそれを受ける気にもなれなかった。  その気持ちが樹にも分かっているのか「読むだけ読んでくれ」そう言って頭を下げてきた。 「そ、そんな事しないでよ……」  そこまでして貰う謂れはないのだ。どうして頭を下げてまで自分にそんな事を言ってくるのか分からない。 「読めば分かるよ」 「……?」 「読んで、気が変わったらでいい……もし、お前の気が変わらないならこの話はなかった事にする」 「……どうして?どうしてオレなの?」 「読めば分かるよ……だから、とにかく読んでくれ……」 「……分かりました……」 「お前が読んでくれるまで待つよ、忙しいだろう?」 「……ううん、大丈夫……今晩読むよ……」  視線が絡む、もうこんな事二度とないと思っていたのに。最後に見た険しい顔ではなく、柔らかく笑う樹の顔に胸が詰まる。樹の顔を見ていられず、優志は視線を逸らした。  固く閉ざさなければならなかった恋慕が溢れ出てきそうだ。まだ忘れられる訳がない、口を開けば愛を乞う言葉が出てきてしまいそうで、優志はもうこれ以上は話す事はないとばかりに口を閉ざした。 「じゃあ、またな、優志」 「……」  樹が立ち上がる、気配でそれは分かったが優志は見送る事は出来なかった。足音が部屋から消えるまで俯き、床をじっと見つめていた。きっと瞳に樹を入れたが最後、自分はみっともなく縋りついてしまうかもしれないから。  再び静寂が室内を支配すると、優志はのろのろと顔を上げ樹が置いていった封筒に手を伸ばした。  樹の真意は分からない、だけど、読めばそれが分かるのだろうか。それは分からない、だけど、もう一度樹に会えた事、そしてどんな理由があってなのか、自分を選んでくれた事。   これで本当に最後にするから、これで樹との関わりは最後だから。封筒のまま紙の束を抱きしめる。 「ごめんなさい……でも、これで最後にするから……」   封筒から取り出した厚い紙の束には樹の想いが綴られている。震えそうになる指先でその一文字一文字を追う。 「……樹さん……」  紙面に込められた想いを探り出そうと、文字を目で追い出した優志の耳にノックの音が届く。 「入るわよ」 「……岩根さん……」  部屋の中に入ってきたのはマネージャーである岩根一人だった。今まで樹が座っていた椅子に座ると、直ぐに口を開いた。 「どうしてさっきの話、断ろうとしたの?」 「……すみません」 「謝って欲しい訳じゃないの……ただ、優志がどうしても嫌だというのなら……理由が知りたいから……」  岩根はテーブルに並べられたグラスをトレーに乗せながら、心配そうな視線を優志に送る。 「……すみません」 「……優志……」  呆れたのか、ただ困っただけなのか、岩根が短く息を吐き出す。だが、その顔は先程の樹と同様で諦めた様子はなかった。 「本を読んで、それから決める事ね」 「……岩根さんは読んだんですか?」 「全部ではないわ、この話を貰った時に出来ている所まで読んだわ……正直話を貰った時は迷った、例え原作を守川樹先生が書いているといっても、無名の監督、経費だってこちらにも負担が掛かるかもしれない……それに優志のスケジュールの事もある、だけどね、守川先生が書いたものを読んで、受けようと思ったの」 「……それは……オレじゃなくてもいいんじゃないですか?この事務所に持ち込まれた話なら、オレじゃなくても……」 「読みなさい、読めば分かるから、これが他の誰かではなく貴方ではなくてはダメな訳が」 「……はい……」 「それを演じれるのは貴方しかいないから、貴方の為に書かれたとしか思えない話だから……」 「……え……?」 「だから、ちゃんと読むのよ」  テーブルの上をさっと見渡しゴミなどが残っていない事を確認すると、岩根はトレーを片手で持ち立ち上がった。  励ますような強い視線を向けてくる岩根に言葉を返す事は出来なかったけれど、優志は頷いてその気持ちを伝えた。  胸の中はごちゃごちゃとして、頭の中も混乱しているけれど。勇気が少しだけ湧いてきた。  これを読んで、そして、その先にあるのは。  怖いけれど、それを知りたいと思った。もう樹の隣りに居る事は叶わないと思うけれど、これが最後だとしても。  それを知るために、優志は最初の一ページ目に視線を落とした。

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