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第69話

 それは感動を呼ぶような話でもなく、涙を誘うような大恋愛話でもなく、ただ二人の男が交差して道を進む淡々として、だけど心の奥に痛みと、そしてそれ以上の明るさをくれる話だった。  事務所で半分程を読み、残りを自室に持ち帰り一気に読んだ。  不器用で社会に上手く溶け込めない、所謂引き篭もりの青年と、夢など見ず毎日数字と戦いそして心を病んだ男の話。  二人の心が触れ合う様は決して柔かくも温かくもない。ただ痛々しくて、目を覆いたくなるような、現実を突きつけられたような気持ちになる。  だけど、そこから生まれた優しさは熱くいつまでも心に残り、生きていく為の、歩いて行く為の少しの勇気を心に植えつけてくれた。  青年の不器用だからこその直向さ、生き難い思いをする遣る瀬無さや憤りなどの負の感情をぶつけられ気持ちが沈んだ。だけどそこから浮上する姿勢に心を打たれた。  誰かに支えられて、そして誰かを支える。そして生きていく。難しい事ではなく、だけど簡単な事でもない。  時には無感動に、時には感情を爆発させる、情緒不安定なんじゃないかと思われる青年だったけれど。  それでも頑張れって最後には応援していた。勇気を貰った。  そして、演じたいと心から思った。  読み終わったのはもう深夜に近い時間だったけれど、溢れる気持ちは樹への想いで、それは衝動だったけれど優志は部屋を飛び出し駅へと急いだ。  終電に乗り、何度も通った樹のマンションまでの道を走った。  伝えたい言葉があるから。  何を言われても、それだけは伝えなければ。  息を切らしたままで樹の部屋のチャイムを押す、生活音の聞こえてこない廊下にチャイムの音が鳴り響き、漸く今が深夜でここが寝静まったマンションなのだという事に思い至った。  もう二度と来ないと約束した部屋の前にいる、忘れていた訳ではなかったが、本来なら許される事ではないだろう。   また写真を撮られないとも限らないのに。その事は都合よく忘れ、ここへ来てしまった。  電話で伝えればいいだろうか、それともメールの方がいいだろうか。ともかくこんな時間に訪問されて樹も迷惑だろう、優志はそう結論付けドアで踵を返しかけた。 「優志……」  ドアが開き、樹が顔を出す。その顔は驚きに満ちている。それはそうだろう、昼間会ったばかりでもう来たのかと思われたのかもしれない。  樹が何か言うよりも先に、口を開く。直ぐに帰る事を伝えないと、だけど、その前に。 「オレ、やります……ううん、やらせて欲しい、それを言いたくて……」 「……そうか」 「うん、その、遅い時間にすみませんでした……」  ぺこりと頭を下げ、そのまま背を向け帰ろうとした優志の動きが止まる。強く腕を引かれた、それはドアの内側へ引き込まれそうな程強い力だった。 「待て」 「……樹さん……」 「話があるから入れよ……」 「うん……」  痛い、とも言えず掴まれたままで優志は玄関へと入った。中に入ってもまだ腕を掴まれたままで、引き上げられるようにして靴を脱ぎリビングへ通される。  そこで漸く腕を解放されたが、樹の表情は何だか怖いくらいに真剣だった。このままさっきの話はなかった事にしてくれと切り出されるのではないかという不安が、優志の中で膨らんできた。  リビングの中央、いつもだったらソファーへと促されるがそれもない。きっと立ち話で済む話、いや、長居させたくないからかもしれない。  どんどんマイナスの方へと意識が下っていく、もうまともに樹の顔を見ることさえ出来ない。 「優志」 「……はい……」  恐る恐る顔を上げ、樹を正面から見つめる。先程よりも幾分和らいだその表情に、少しだけ優志の心も浮上する。だが、まだ話を聞くまでは緊張が解ける事はない。 「……ありがとうな」 「……え?」 「……断られると思った……読めば分かるなんて偉そうな事言って、お前の気持ちを変えられないかもしれないって、少し弱気になっていたから……」 「ごめんなさい、本当は……やらない方がいいって、まだ思ってる……でも、読んで……オレ、やっぱりやりたくて……」 「やらない方がいい?どうしてそう思う?」  穏やかな湖面のように凪いだ瞳を向けられ、優志はたじろぐ。そんな風に優しく見つめられたら、気持ちが溢れ出てしまいそうだ。 「……オレは役者だから……だから、ちゃんと演じられるから……それ以上は何も、ないから……だから……」  意識の下に押し込めて、感情を封印すればいい。そうしなければ、きっと側になどいられない。 「あの役をオレにやらせてください、演じさせてください……だから、役者として側に、いさせてください……」 「……ごめんな……」 「い、樹さん?!」  謝られたかと思ったら、急に樹の腕の中に閉じ込められてしまった。抱きしめられていると思うと、途端に心臓が壊れでもしたかのように激しく動き出す。 「……樹さん、その……苦しい……」 「あ、悪い……大丈夫か?」 「……うん……」  緩んだ腕から逃れる事も出来たけれど、体は硬直したままで心臓だけが正常以上の働きをしている。こんなに密着していれば樹にも聞こえてしまう、そう思ったが優志には抑える術がなかった。 「……諦めた方がいいと思った、お前に迷惑を掛けると思ったからな……いや、それは言い訳だな、単に怖かったんだ、逃げただけだ……だけど、諦め切れなくてあれを書いた……だけど、ごめんな、優志」 「……なに……?」 「……オレは美月がお前を好きなんじゃないかって思った……美月の為って言い聞かせて、諦めようとした、だけどただ怖かったんだ、オレが美月に勝てる訳ないと思ったから……オレじゃお前を幸せに出来ないと思ったから……」  樹の言葉が頭に入ってこない。混乱した脳内は、ただ言葉の羅列を受け入れるだけで意味をなさない。優志は呆然と樹を見詰める事しか出来ないでいた。  そんな優志の心情に気付いたのか、樹はもう一度強く抱きしめると、真剣な眼差しを向けていた。 「オレは……勿論役者としてのお前も必要だ、だけどな、ただの江戸川優志としても……側に居て欲しいんだ……」 「……え……?」 「こっちの都合ばかりお前に押し付けてしまって、本当に申し訳なく思う……関係ないとか、ここには来るなとか言ったけどな……だけど、これがオレの本心だ……」  「………」 「……」 「……やっぱりそんな都合よくはいかないよな……」 「………」  抱き留められていた体がふわりと軽くなる。樹の熱が離れたせいだと漸く気付き、咄嗟に腕を伸ばした。  頭の中はまだ混乱していて、情報処理が追いつかないのに体は正直だった。 「優志……」  樹がしたように、背中まで腕を伸ばし思い切り抱きつく。言葉にはまだ出来なくて、もどかしかったけれど、今はこれしか出来ないという心と体に素直に従った。 「……ごめん、オレ、頭悪くて……よく、分かんなくて……」 「優志……」 「その、もっと……分かりやすく言って……ほしい……ごめんなさい」 「……ごめんな、小説家なのに、分かりにくい事しか言えなくて」 「ううん…オレがあほなの……」  離さない程度に腕を緩めると、樹の両手が優志の頬に触れ上向かされる。恥ずかしかったけれど、真っ直ぐに樹の瞳を見つめた。心臓が口から出てしまいそうな程に緊張して、頭の中は真っ白なパニック状態だった。 「優志」 「うん」 「好きなんだ、だから側に居て欲しい……優志じゃなきゃだめなんだ……映画の話もだけど……オレの隣りにはお前がいなくちゃダメなんだ」 「……」 「まだ、理解出来ない?」  理解出来ないのではなかった。ただ、言葉が出てこないのだ。  まるで夢を見ているようで、信じられず、ただ樹の瞳を見返す事しか出来ない。  そんな優志の気持ちを汲んだように、樹は急いたりせず黙って待ってくれた。時折愛しそうに頬を撫で、指が唇に触れる。 「……いつきさん……」 「ん?」 「……これ、現実?夢、じゃなくて……?本当に……本当にいいの……?」 「夢じゃないよ、ほら、痛いだろ?」 「うう、痛い……」  手加減せず優志の頬を抓る樹の手に自分の手を重ねる。痛かったのが現実で、だけど、まだ頭の中はふわふわとまるで雲の上を歩いているような気分だ。 「優志……」 「いつ……」  名前は樹の口の中に消える、性急なキスはずっと待ち侘びていたのだと言っているようで、優志もまたそれに応えるように舌を絡め合わせた。 「……ふぅ……ん……」  洩れる吐息は熱く、そして甘い。色をつけたらきっと桃色に違いない。  唇が離れてからも体を離す事は出来なかった。互いが密着しているから、互いが何を求めているかが分かる。 「……優志」  熱を含む声音は、久しぶりに聞く雄の声。その声が、その熱が自分に向けられ、自分を求めてくれている。それが嬉しくて、本当は叫び出したい程なのに、言葉が出ない。 「好きだよ」  ただ頷いて、その想いに答えた。

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