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第27話
チャイムの音に玄関から顔を出したのは、家主ではなかった。
「あ」
顔を合わせた二人は異口同音に口を開き、驚き合った。だが直ぐにお互いが納得する、別にこの人が来ても(居ても)おかしくはないと。
「お兄ちゃん今居ないんだけど、もう直ぐ帰ってくると思うから、上がって待ってて」
「……うん、ありがとう、おじゃまします……」
部屋から出てきたのは樹の妹の守川美月だ。人気アイドルグループ「ダーツ」所属で優志がテレビ局の廊下ですれ違ったとしても声などかけて貰えないような、雲の上の存在。
だが、樹の部屋で何度か会った事があるので、こうして今は気安く話せる仲になったのだ。(因みに局で会った事はまだない)
「今日来たのって、もしかして新作読んだから?」
「あ、うん……」
「あのシリーズ、好きなんだ、今回のも面白かったよね」
「うん」
以前美月と会った時も樹の新作が出た時だったから、それを覚えていたのかもしれない。
リビングに通され所在無さげに入り口の所に優志が立っていると、待っててと麗しい笑顔で言い残し、キッチンへと消えた。
樹は居ないようだが、美月が居る時に来たのはタイミングが悪かっただろうか。樹は極度のシスコンだ、きっと第三者が居る事を疎ましく思うに違いない。
……美月ちゃんが居る時の樹さんの浮かれようったらないもん……。
これは家主が帰って来る前に退散した方がいいだろうと思っていると、パタパタという足音と共に美月が戻ってきた。そして、その手にはさっきは無かったピンク色の布を丸めたような物が。
「優志君てカレー作れる?」
「え?あぁ……うん、出来るよ」
「ホント?じゃあ、続きお願いしてもいい?」
「……続き?」
「うん」
にっこりと微笑み、お願いなんて言われて断れる男はいないだろう。格別女性に好意を抱いていない優志とて例外ではなかった。笑顔に絆されたのではなく、単にちょっぴり怖かったので頷いたまでだが。
「じゃあ行って来ま~す」と言い残し、軽やかに美月は去って行った。ドラマの収録時間が変更になり、別の番組の打ち合わせが早まったと言っていた。
夕方まで時間が空いていたので、久しぶりに兄にご飯でも作ってあげようと思い来たらしいのだが、仕事では仕方がない。
そこへ丁度良く優志が来たものだから、美月にしてみたら都合が良かった。途中で放置したら、兄はカレーを作る事無く破棄してしまうかもしれないと危惧していたらしい。
カレーを作るのは別に構わない。構わないけれど少しだけ困った事がある。
きっと樹は妹の手作り料理が食べられると思っていただろう、自分が作ってはがっかりされるのではないだろうか。
……どうせなら美月でないにしろ、可愛い女の子が作った方が樹は喜ぶと思う。
あと一つは……これだ。
優志は美月から受け取ったピンク色の布地を広げた。
ひらりと舞ったのは少女趣味のようなフリルだ。優志が手にした物は、これまでもこれからも縁のないと思っていたフリルの付いたエプロンだった、しかも可愛らしいパステルピンク。
「……」
自分が着た姿を想像して優志は軽くひいた。美月が着けるならともかく、自分がこれを着てしまったら視界の暴力になるのではないだろうか……。
筋肉の付いていない薄い体ではあるが、身長は樹とほぼ変わらない180センチオーバー。そして女顔という訳ではなく、小さな顔の中の、切れ長の瞳と薄い唇はどう見ても男だ。可愛いなんて言われる事はほぼない顔だ。髪型だって、今は全体的に短いので間違っても女性に見られる事はない。
「はい、汚したら悪いからこれ着けてね、これ、優志君にあげるから持って帰っていいよ」
美月からプレゼントされてしまったが、寧ろ服が汚れてもいいから着けないで料理を始めた方がいいんじゃないだろうか。幸い着ている服だってセールで買ったティーシャツに、安物のジーパンだ。自炊する時だって、エプロンを着けた事はない。
「……でもなぁ……」
ぴらりとしたそれを樹はどう思うだろうか。
……でも、樹さんこういうの好きそう……。
クリスマスの時のサンタコスを思い出し、もう一度エプロンに視線を落とす。サンタの時は素肌に衣装だった、今回は……。
……いやいやいや、流石にそれは恥ずかしいし、オレがやったらひくって、絶対。
自分の考えに羞恥で頬を染めてみても、一度思いついた考えはそう簡単に頭から放れてくれなかった。
どう考えても樹好みのシュチュエーションではないかと思ったからだ。赤面し、ドキドキしてしまう。バカみたいだけど、でも。
……だって男のオレがするのってホントどうかと思うんだもん……。
だが、優志は決心が揺るがないうちにとエプロンをソファーに置くと着ていた長袖のティーシャツを脱ぎ始めた。
***
玄関の方でがちゃりと音が聞こえて、優志はびくりと体を震わせた。体を固くしていると、続いて「ただいま」という樹の声がキッチンに届く。
「お、おかえり」
「あぁ、美月に頼まれたんだって?悪かったなー」
大きな声で返事をすると廊下の樹にも届いたらしい。樹の口振りからすると、美月から連絡が入っているようだ。それは良かった、まだ美月から聞くのならがっかりでも半減されるだろう。
「ううん……そんな事ない……」
優志の声と被るようにして、カレーの匂いの漂うキッチンとリビングに続くドアが開く。
「……優志?」
「おかえりなさい、樹さん」
「……あぁ……」
「あ、出来るまで休んでて、あとサラダ作れば終わるから」
「分かった、何、どうした?」
「え?」
「……何か落としたのか?」
「あ、うん……」
樹からは、カウンターキッチンの下でしゃがむようにしている優志の首から上しか見えない。ひょっこりと顔だけ出しているので、樹は不思議そうに首を捻っているのが優志側からは見える。
「オレも手伝おうか、何落としたんだ?」
「い、いいって!大丈夫」
「そうか?まぁいい、とりあえず、これ仕舞っておくな、後で食べよう」
樹が手にしていた白い紙袋を掲げた。どうやら冷蔵庫に仕舞うらしい、だが冷蔵庫はキッチンの並びだ。優志は慌てて捲くし立てる。
「え?お、置いといて!オレ、仕舞うよ、樹さん着替えてきなよ……!」
「……あぁ……?」
スーツ姿なので着替えた方がいいだろう、滅多に見られないスーツ姿なので本当はもう少し見ていたかったのだが、まだ向き合うには恥かしい。
仕方ないので何かを拾う振りをするように優志はしゃがみこんだ。樹のいるリビングからはしゃがんでしまえば優志が何をしているかは見えないので、きっと物を拾っていると思われるだろう。
「じゃあ、よろしくな」
「うんー」
リビングの戸が閉まる音を確認すると、優志はほっと息を吐いた。
やはり着替えた方がいいだろうか、何だかものすごく恥かしい。それにちょっと肌寒いし。
腕を擦り立ち上がろうとしたところで、急に樹の笑い声が聞こえた。それも直ぐ後でだ。
「?!」
振り返ると、口元を押さえてこちらを見下ろしている樹が真後ろに居た。リビングから出て行ったと思った樹が何故キッチンにいるのか分からず、しかも着替えようと思ったのに己の姿をばっちりと見られてしまい優志の体温は恥ずかしさのあまり急上昇してしまった。
「飲んでいるのか?」
「……飲んでない……」
「にしては真っ赤だぞ」
「……」
それは樹に見られたからだ。クツクツと笑う樹の笑みは人が悪そうで、細められた瞳は鋭くまるで獰猛な肉食獣を思わせた。
「優志」
呼ばれるままに優志は瞳を合わす、目が合えば最後頭からがぶりと食べられてしまうのは分かっていた。だって相手は捕食者だ。だけど、視線を外す事が出来ない。
「優志……」
低い声音にぞくりと肌が粟立つ。それは体が期待したからだ、ベッドの中と同じ声と熱量に。
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