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第9話
「優志、起きろよ、朝だぞ」
「……んん……」
耳元で優しく囁かれる声に、優志は愚図るような声で答える。だが、本人は答えたつもりなどなく、まだ半分は夢の中だ。
「優志ー、起きろよ」
クスクスと聞こえるのは知った人の声、あれ……?という疑問が沸くが、まだ寝ぼけたままの優志は寝返りを打っただけで一向に起きる気配がない。
ぱさりと体の上に掛かっていた掛け布団一式が外され、シーツの上には丸まった優志の裸体があった。優志は目を閉じたまままどろんでいる。
「優志」
「んー…」
聞く者が聞けばぞくりと背筋を震わすような色気を含んだ声音、だが優志の耳には子守唄程度にしか届かない。声の主はまだ諦めないようで、しつこく優志の耳元に語りかけた。
「……起きないと悪戯しちゃうぞ……」
すすっと優志の背骨に沿うように長い指が這う、その感触にぴくりと反応したものの覚醒までには至らない。
ベッドが揺れ、小さなスプリングの音がしたが果たして優志の耳には届いただろうか。
「優志、起きないお前が悪いんだからな……」
呆れたような声音は、しかしどこか愉しそうだ。声の主の手が優志の肩に掛かり、丸まっていた体は仰向けにされた。
「……素っ裸で人ん家のベッド占領すんなよなぁ……」
ベッドで眠る優志は、男にしては肌理の細かい白い肌にすらりと伸びた手足をしている。その裸体の横で優志を覗き込む男も優志と同じ位に端正な顔立ちだ。
男の口元に怪しい笑みが浮かぶと同時に徐々に、男は優志の顔に自分の顔を近付けた。
「優志」
「……ぅう……ん?」
「朝だぞ」
「……まだ……」
「何がまだだ、オレは出かけたいんだけどー……おい」
「……んー?」
「あと10秒で起きないと本気でキスするぞ」
「……ん……」
「10、9、8……」
耳元でカウントが始まる。漸く優志の瞼がゆっくりとだが開き、焦点の定まらない瞳は屈み込んでいる男の顔を捉えた。
「……幸介 さん……?」
「7、6……起きないとホントにするぞ」
「……なにを?」
「何がいい?セックス?」
「は?!」
「5、4、3」
早まったカウントに優志は慌ててベッドから飛び起きた。
「2、1、はい、だめー、じゃー本番すっか」
「はぁぁぁ?!朝から何言ってるんですか!!オレ、起きたし!!!」
「うっせーなー、大声出すなよ、冗談に決まってるだろー」
「……」
むすっとして睨み付けても涼しげな顔で見返されただけだ。何を言っても敵わないのは長年の付き合いで分かっている。優志は大人しく口を閉じると、ベッドの下に落ちていた自分の衣服を拾い上げた。
「優志さぁ」
「はい?」
黙々と着替えていると、ベッドに腰掛けた幸介が視線を向けてきた。
「オレだから良かったものの、その酒癖の悪さどうにかした方がいいぞ?」
「はい??」
「酔って気持ちよくなるのは分かるけど、あんな風に酔うと人によっては誘われてると勘違いするからな、幾ら男でも、危ないぞ。お前絶対外では飲むなよ、お前は酒で人生失敗するタイプだな」
呆れた口調とは逆に、表情は真剣そのもので幸介は捲くし立てる。
「な、何ですか、いきなり、オレ別に夕べは……」
「夕べは?」
「……」
「記憶あるか?」
「……なくはないですけど……」
孝介の部屋で飲んでいたのは覚えている。ただ、何をどの位飲んだのかはよく覚えてないのが正直なところだ。優志がバツの悪そうな表情を浮かべると、幸介は大袈裟な程に大きなため息を吐いた。
「はぁぁぁ……」
「オレ、そんなに悪酔いしてませんてば」
「あれが悪酔いじゃなければ、何が悪酔いなんだかオレは聞きたいね、いきなり脱ぎだしてビックリしたぜ……」
「……」
「とにかく」
言いながら幸介はベッドから降り、優志に厳しい視線を向けた。
「酒は外では絶対に飲むなよ、事務所に迷惑かけるだけじゃなくて、お前の今後を潰しかねないんだからな」
「はい……」
「……まぁ、夕べ勧めたのはオレだから、半分はオレにも責任あるんだけどな……」
「オレ、知らない人とは飲みません」
毅然とした態度で反論した優志に対し、幸介は呆れた視線を向けた。
「……オレは外で飲むなと言ったんだが……?」
「……そ、外ではちゃんとセーブして飲んでというか、飲んでませんから……うちでだって飲まないけど……」
「……自覚しろ、自分は酒に弱いって……」
「はい……」
仕方ねぇなぁと笑いながら言って、幸介は先に寝室から出て行った。優志もその後に続き狭い廊下を渡り隣のリビング兼ダイニングキッチンへと入る。
優志の部屋よりは広いとはいえ幸介の部屋も、間取りは優志と同じで1DKだ。カウンターキッチンと合わせて10畳あるかないかのフローリングの上に、二人掛けのソファーと丸いテーブル、テレビなどのOA機器が壁際に配置されていた。
「今日は?」
「あ、はい……夕方からバイトです」
「……そっか」
優志がカウンターキッチンに面して置いてある2脚ある椅子の片方に腰掛けると、幸介は奥へ回り込み用意してあった朝食を並べてくれた。
トーストと目玉焼きと緑の目立つ野菜サラダ。あとはそのうちコーヒーが出てくるようだ、良い薫りがしている。
「……いただきます」
「おう、めしあがれ」
「……幸介さん、今日は?」
孝介が隣の椅子に座る。
「あー、オレは午後から打ち合わせ」
トーストを齧りながらスマホを弄る姿すら幸介は絵になる、このままCMが1本作れそうな程だ。
身長は優志とそれ程変わらないが、優志のように華奢という程ではなく適度な筋肉に覆われている羨ましい体形だ。すらりとした手足と小さな顔の中には、計算されたようにバランスよく整ったパーツが配置されている。
事務所内で今一番売り出し中の俳優の幸介は、今は舞台の稽古期間の筈だ。今日の稽古は休みだが、打ち合わせがあるのでオフという訳ではないのだろう。
同じ高校の先輩後輩だった事もありこうして部屋に呼ばれる事も多々ある、だがそれは時々他の新人からやっかみを買っていた。だけど、言いたい事は分かる。自分みたいに才能のない人間が幸介と一緒にいるという事が時々信じられないからだ。
「何、お前卑屈になってんの?」
「え……?」
「暗い顔してる、どうせオレには打ち合わせの予定なんてないですよーとか内心思ってたんだろ」
笑顔から一転、真剣な顔の幸介。睨まれた訳でもないのに、気圧される。
「そんな事ないですけど……」
内心を読まれたバツの悪さを隠せず、それでも誤魔化すように零す。
読者モデル、それ以外だとドラマのエキストラ、舞台のアンサンブル。クレジットには端役としてまとめられて名前が出るが、ちゃんとした役名の付いた仕事はまだ優志にはない。幸介のように舞台役者として活躍するでもなく、芸能人と言っていいのかすら怪しい。引け目を感じるなと言われる方が無理がある。
「顔は悪くねぇし、演技だってそこまで悪くはないんだけどな……」
悪くなくても、良いという訳ではないのだろう、優志自身も分かっているので黙ったままでいた。幸介は「ほら」と言って優志の前にマグカップを置いた。
「まぁ……次のオーディションの結果次第だろうな……お前のこの先がはっきり決まるのは」
「……はい」
「一次は通ってるんだろ?だったら、確実に役を取るんだ、例え落ちたとしても次に繋がる面接をしてこいよ」
「はい」
幸介の部屋から出て電車に揺られ、優志は帰途に着いた。
昨日はダンスレッスンの後、事務所の数人で夕飯を食べ誘われるままに幸介の部屋に遊びに行った。前から借りる約束だった映画のDVDを、どうせ観るなら優志の部屋の小さなテレビよりも幸介の部屋にある大型テレビで観ようという事になったからだ。
観ている途中でビールを出されるままに飲み、映画を観てその後も飲みながら色々な話をした。
いつもだったらちゃんとセーブ出来るのに、この日は珍しく幸介が優志のダンスの出来を褒めてくれ気分が良かったのが敗因だ。
浮かれるままにビールを飲み、その後出された日本酒もどれだけ飲んだのか優志は覚えていなかった。
別に誘ったりなんてしてないけど、確かに酒が入ると少し開放的になってしまう性格なのは自覚している。
……覚えてないからあまり強くは言えないけど……多分、相手は幸介だ、何もなかったに違いない。と思いたい。
「……はぁ」
褒められて浮かれているようじゃ、まだまだダメだよな。
帰り際に見せた幸介の厳しい表情を思い出す。自分位のレベルの顔と演技ではこの広い芸能界では埋もれてしまう。特出した何かを見出さなければ。
溜息なんか付いている場合じゃない、今の努力なんかじゃきっとオーディションには受からない。だからもっと頑張らないと。
あと、禁酒だ、禁酒。
だが優志の誓いは空しくも数時間後、脆くも崩れ去る事になる、それは本人の意思とは関係なしに。
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