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第5話
「……本当に全く覚えていないのか?」
「……う……すみません……」
「……」
朝起きると知らない部屋のベッドに寝ていた。訝しく思う間もなく今度は声にならない悲鳴をあげた。隣に寝ているのが、守川樹でしかもお互い全裸だったのだから。
慌てた拍子にベッドから落ちそうになった優志を抱きしめ、落ち着くよう諭した樹に吃驚した様子はなくて。だからここは樹の部屋なのかと霞む頭で考えた。
ベッドの下に置いてあった服と下着を渡され、着替える段になって漸く優志は自分の体の異変に気付いた。
体がだるくて、下半身に鈍い痛みがある。そしてその疼痛は覚えのある痛みで、二人共全裸でベッドに入っていた事から推測されるに自分は夕べ樹と…。
蒼白になっている優志を見て、樹がまさか、という顔で聞いてきたのは「夕べの事を覚えているか?」という質問だった。
三次会で飲み過ぎて潰れた優志をタクシーに乗せたのは志賀だった。随分飲ませすぎたと反省して、タクシーで送って行くと言っていたのを横で聞いていた樹が方角が同じだから自分が同乗して送って行くと名乗り出た。
潰れたにしても、まだその時点で優志の意識はあったらしい。本人は覚えていないが。
だが、タクシーに乗ると優志は直ぐに寝てしまった。方角は聞いたが細かい住所を聞けずに寝てしまったので、樹は仕方なく自分の部屋に連れ帰った。
そして、酔った優志は抱きついて自分から誘ったのだという。
「……誘ったって……」
「…抱いてくれって言ったんじゃないけど、その……キスしてきてね、抱きつかれてキスして……オレも何か変な気分になって、いいのか?って聞いたら、いいって言うんで……」
「……」
「お互い酔っていたんだ……謝って済む問題じゃないけど……」
「……いえ……すみません……オレ、覚えてないけど、酔うとキスするっていうのは……前にも言われた事あって……だから多分オレが悪酔いしちゃったせいです、その……気にしないで下さいっていうのも変ですけど……でも、気にしないで下さい……」
何て言えばいいのか分からずに、もう一度優志は謝罪の言葉を口にした。
樹はゲイなのか、とかそんな事も考えたけれど今聞けるような事じゃない。もしかしたら昨日そんな話をしたのかもしれないが、全く覚えていない。
なんで丸っと記憶が削ぎ落ちてしまうのだろう、どれだけ飲んだんだろう、自分は。
「……あの、オレ、そんなに飲んでました……?」
「んー……いや、よく分からないけど、志賀さんが飲ませ過ぎたって言ってたな……誰か止めるべきだったね……オレも飲ませてるのは見てたんだから、止めればよかったんだ」
ごめんね。
そう言って優しく笑う樹。すまなそうな眼差し、だが迷惑を掛けたのはこっちなのだ、それに飲むと判断したのは自分。樹がそんなに責任を感じる事はない。
「いえ、樹さんは悪くなんかないです……」
「いや、悪いよ……酔った君を……」
「で、でも……お、オレから……」
「そうだとしても、理性的な振る舞いが出来た筈だ……」
諭すような口調に、樹が昨日の事をなかった事にしようとしているのではないかと思った。
男と寝たなんて、笑いのネタにもならないだろう。汚点だと思われても仕方ない……。きっと、樹は後悔しているのだ。
忘れようと言い出したら、自分は素直に頷いて二度とここに来なければ、それで今日あった事は永遠に消える。蒸し返される事はない、秘密にもならない、抹消されるのだから。
「……樹……さん……」
でも、自分はなかった事になんか出来ない。したく、なかった。
過ちだと思われたくなんてなかった。後悔なんてしてない、それを伝えたいのに優志は言葉を見失っていた。
「……オレ……」
「……泣かないでくれよ……優志……」
隣に座る樹の腕が遠慮がちだったが、優志の肩を優しく抱いた。傾くようにして優志は樹の胸に頭を預けた、そっと見上げると困惑した表情がある。
「ごめんなさい……」
「どうして、謝る?君は悪くないだろ……?」
「だって……」
泣くつもりなんてなかった。だけど、ぼやけていく視界は止めようがない。
樹の指先が優志の目尻を優しい仕草で拭う。女性にするような優しい仕草に、きっとこの人はこうやって女の人を宥めるのだと何となく思った。
「オレ……樹さんには申し訳ない事をしたと……思ってるけど、でも……後悔は……ないです……」
「優志……」
樹は眼を見開き優志を凝視する。そういえばまだ眼鏡を掛けていないのか、と今更のように気付いた。
「なかった事に……したいんだよね……樹さん……」
「……」
「でも、オレ、覚えていたらダメ?忘れなきゃダメ……?樹さんがなかった事にしてもいい、オレは……」
「……君の方が忘れたい事じゃないのか?」
「……そんな事、ない……」
忘れる。
それ以前に自分は覚えていないのだが。
それが、惜しい。覚えていないけれど、きっと甘くて幸せな時間だったんじゃないかと……そんな風に思う。
覚えていないけれど。
だからこそ、この事実をなかった事になど出来ない。覚えてないけれど、自分がこの人に抱かれた事を。
覚えてないのに、心は樹を求めているのだ。それだけは分かるから。
「あ、そうか……忘れたい、じゃなくて、忘れているのか……いや、それはいい……えっと……じゃあ、どういう事だ?」
樹は混乱してきたようだ。まだセットされていない髪をくしゃりと掻き回している。
寝起きにこの問題はヘビーなのかもしれない。
「……とりあえず、朝飯食うか……確かパンがあったと……」
「樹さん……」
立ち上がった樹の手を、縋るように握ってしまった。吃驚したように固まっているが、吃驚したのは優志もだ。
自分の取った行動と言動に。
「樹さんは、後悔……してる?」
「……いや、してないよ……申し訳ないとは思うけれど……した事は後悔してない」
「申し訳なくない……です……」
「優志……」
「なかった事に、したくない……オレ、その……」
「……じゃあ」
もう驚きも困惑もなく、それは見た事のない男の顔だった。
いや、見た事がないと思ったのは一瞬で記憶の隅に微かに明滅している、これは忘れている記憶。
「素面で、会おうか……優志」
「……はい」
笑った樹にもう優しい面影は消えていたけれど。雄の顔を見せつけれられても、それが樹からの警告だとしても。
それでも、もう踏み出してしまったのだ。恋という迷路に自分は。
次会った時に自分達の関係はどう変化しているのだろう、どう変化していくのだろう。
この生まれたばかりの恋心にこの先翻弄されていく予感はある。だけど、ここでそれを消す事はもう出来ない。
好きだ、そんな事言えるような関係になどきっとならないと、この時にはもう分かっていた。
それでもこの人の隣を、どんな形でもいいから、いや、ただ隣にいるのではなく、もっと深くを分かり合える関係になりたいと望んだから。
なかった事になど出来ない。この先も。
たとえ、悲恋にしかならなくても、それでもと。
直向にその時はそう思えたから。
「樹さん……」
「まずは、よろしくな、優志」
「はい……」
直感でしかなかったけれど、きっと今よりこの人を好きになる、優志はそう強く確信した。
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