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第30話

樹が止めたいと言うなら、止める権利なんてない。  樹を不愉快にしてしまったのは、美月ではなく自分が残ったから。  こんな風に言葉と態度で樹を体に留める事など出来ない。だって自分は……。  樹の恋人なんかじゃないんだから……。 「ごめんなさい……」  だからこれ以上自分を嫌いにならないで欲しい、鬱陶しいと思わないで欲しい。  涙など流したら余計に鬱陶しく思われてしまう、だが分かっていても溢れ出る涙を止める術がなく優志は頬を濡らし続けた。 「……優志……」  下から真っ直ぐ見つめる優志の瞳を樹の瞳が見つめ返す。困惑の色は消えなかったが、口調は優しく子供に接するような穏やかなものだった。 「どうして謝るのか言ってみろ……」  半身を倒した樹はそっと優志の目元にキスを落とし、涙を掬うように舌を這わした。 「優志……どうしてオレが怒っているなんて思った……?」 「……怒ってる……でしょ……?」 「どうして?」 「……だって……美月ちゃんが作ったカレー食べれると思ってたでしょ……?それなのにオレが……」 「……いくらオレでもセックスの最中に妹の名前は聞きたくないな……」  怒ったのか、単に困っただけなのか、それとも呆れたのか、そのどれもが当て嵌まりそうな苦笑を樹は浮かべた。  まだ顔は優志の真上にあり、直ぐにでもキス出来る距離だ。 「ごめんなさい……」 「もう謝るなよ、オレは怒ってなんかいないんだから」 「……ホント?」 「ホントだ、どうしてそう思うのかがオレは不思議だね」 「……だって……」  樹の言っている事は本当だろうか?  探るように樹の顔を見つめてみても、その心までは伺い知れない。  口では何とでも言える、でも、言った事が本当ならば。 「……本当に怒ってないの?」 「くどい、怒ってないよ」  まだ信じてくれない優志に、今度こそ呆れたのか力の抜けたような表情を作り微苦笑する。怒っていないというように、頭を撫でる手も穏やかな手付きだ。 「……だってさ……樹さん……いかせてくれなくて……意地悪するから……怒ってるのかなって……」 「……あぁ……そういう勘違いか……」  納得したのかただ真面目な顔で樹は頷いている。 「……いつも意地悪するけど……でも今日は……何か……いつもと違うような気がして……だから怒ってるのかなって……」 「別にいつもと変わらないよ、怒ってない、敢て言うならお前が変わった事をしている位だろ?」 「……変わった事って……オレは……」 「オレを喜ばそうとしただけだよな?」  にやりと笑う樹はさっき見たような優しそうな表情から、悪戯をしかける悪餓鬼のような顔をしている。 「……喜ばそうっていうか……樹さんは好きそうかなって思っただけ……」  案の定、男のロマンだとか言い出した位だから裸エプロンは成功だったのだろう。  「……優志……」  急に熱を帯びた声が耳元に落ちる、散々聞いてきた樹の抑えた声にまだ体内に収まったままの樹自身を強く感じた。 「あ……」 「じゃあ……もう、いいな……?」 「……うん……」  再び樹の肩に両手を伸ばし、今度こそ、という思いを込めてぎゅっと強く抱きついた。 *** 「カレー……どう?食べられる?」 「あぁ、美味いよ」  優志の作ったカレーをぱくぱくと口に運ぶ樹の顔をじっと見つめながら聞くと、嬉しい一言が返ってきた。お世辞だと分かってはいるが、そう言って貰い目の前で食べて貰えるのは優志にとって格別の事だ。  味見をしていたから食べられない程不味い物に仕上がっているという事はないが、それでも心配は尽きない。  ほっとして漸く優志は自分の作ったカレーを一口食べた。  可も無く不可も無い、という味だ。  しかし可笑しな感じだ。自分の手料理を樹の部屋で一緒に食べるなんて。まるで恋人のような……。  そう思った所で優志は違うと自分の考えを否定した。  美月に頼まれたからなのだ、この幸運は。  本当ならここにいるのは自分ではなく、樹の妹、樹の大好きな美月の筈。きっともっと笑顔を見せて美月と食事をしていた筈なのに。  そう思うと樹に申し訳なくなってくる。だけど、ごめんなさいと謝りながら美月に感謝した。こんな僥倖とも言うべき役を交代してくれて。  まだ背中は痛いし腰の辺りはだるかったけれど、腹は減っていたし、たとえ腹が減っていなくても身体が動かなくても優志はこの椅子に座り樹と食事をする事を選んだろう。  またこんな風に一緒に食事をする機会がいつ訪れるかなんて、分からないのだから。 「……樹さん」 「ん?」  コップに入った水を飲んでいた樹は、優志の呼びかけに目線を向けた。 「……あの、新刊……買って読んだんだ……そしたら……その、電話とかメールじゃなくて、会いたくなって……いきなり来ちゃってごめんなさい……」 「謝ってばかりだな、今日は……そっか、ありがとうな、優志」  苦笑しているが、樹の瞳は優しく細められていた。突然押しかけて来た事を鬱陶しいと思われていたらと思っていたが、そこまで迷惑だとは思われていないようだ。  伝えたい事は色々ある。  いつも言えない、一番言いたい事。他愛も無い戯言も、たまに洩れそうになる愚痴も、些細な感動も、本当は家族のように、友達のように、恋人のように、もっと親しく話が出来たらと思う。  だけど、いつだってそうはいかなくて。言いたい事の半分も言えない。 「あのね」  嘘じゃないんだ、本当の事。だけど、本当の事は言えない。  だからせめて。 「オレ、樹さんの本、大好きだよ」  言葉の裏に想いを乗せて。

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