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Ⅲ. 理屈じゃない恋と守りたい笑顔
あの日、パンドラの箱であるところの扉を開けてから、バイトの日にこっそり梓紗 と会う事が、いつしかオレの日課になっていた。
梓紗にせがまれるままに外の話をして、梓紗の質問に答える。それだけの時間だけど、梓紗が聞き上手なのと、嬉しそうに笑ってくれるのもあって、オレも梓紗と過ごす時間が楽しみだった。
とは言え、いつ旦那サマや使用人達に気が付かれるか分かったもんじゃないっすから、部屋に入る時と部屋から出る時は、用心に用心を重ねている。そわそわと浮かれる気持ちを抑え込んで、今日もこっそり梓紗の部屋に身を滑らせた。
部屋と言うよりは、梓紗にとってここが世界なんすよね。
オレがこの部屋に来るまで、この子は本で仕入れる知識の他、外の世界に触れずに生きてきたんだから。
誰の意向なのか、窓さえない壁をぼんやり見つめつつ、思う。梓紗は空の色も、天気も、目で見て知る事はない。雨粒に触れる事も、太陽の日差しに目を細める事も。
雨も、空も、梓紗にとっては本の中だけの世界だ。
それはとっても寂しいっすねぇ。そんな風に思っている時だったから、
「今日は結構寒いっすよー。そろそろ雪が降りそうな気がするっす」
「雪?」
「あれ、本で読まなかったっすか? 天気の1つなんすけど、雨とはちょっと違って、白くてふわふわで冷たいんすよ。冬から春先にかけて降ってるっすねぇ」
梓紗が首を横に振った。雨や雷を知っていたから、てっきり雪も知っているものだと思ったのに。
簡単な説明を口にすれば、梓紗の目はたちまちに輝いた。
「凄く楽しそう! ねぇ、夏樹 、オレ、雪を見てみたいな。……せめて窓っていうのがオレの部屋にもあれば良かったのに」
けれど、すぐ悲しそうに伏せられてしまう。
小さな窓1つない壁を見つめる瞳は、本当に寂しそうで。オレ達が当たり前のように触れている天気すら、梓紗にとっては本の中の作り話だというのが、今更ながらとっても寂しいと思っている時だったから。
「梓紗」
なにを考えているんすか。頭の中で冷静なオレが警告する。
こっそり部屋に入って話をしているだけでもクビというか、首の方が怪しいのに、と。
それはもっともだと思う。オレも分かっていた。だけど梓紗の悲しい顔を見て、無視できないほどには、もう、オレは梓紗の事を気にしている。
多分、好きなんだと思う。以前の職場で奥サマが「恋は理屈じゃないのよ」なんて言った時には、ワガママでいい加減だと散々な評価を胸中で下していたっすけど、それは訂正。内心で散々バカにしてしまった奥サマにも、今更ながら謝っておく。
恋は、理屈じゃなかった。
オレは梓紗の名前を改めて呼んで、そっと手を差し伸べた。
「行こう。雪が降りそうな日、調べておくッスから、その時、一緒に雪を見よう」
「いいの!? ……あ、だけどオレはこの部屋から出られないんだ」
「大丈夫っすよ。梓紗が、雪を見たい、ここから出たいって言うなら、オレが梓紗を連れ出してあげる。どこへだって、連れていくっす」
梓紗のオレより小さな手が、そっとオレの手に触れた。
やわらかな笑顔が目に入る。目の端に少しだけ滴が溜まっていた。
「うん、連れていって。夏樹と一緒に雪を見たい。雪だけじゃない、夏樹が教えてくれたもの、本で読んだもの、全部全部、夏樹と一緒に、見てみたい!!」
「了解っす。色々なもの、たくさん見ようね、梓紗」
「うん、約束」
簡単な事じゃないのは分かってる。失敗したら死ぬ可能性だって理解してる。
それでも梓紗の笑顔を見られた。この笑顔を守るためなら、梓紗との約束を守る為なら、なんだって出来る気がした。
梓紗の頭を、あいている手で撫でながら、オレが思い出したのは雪ヶ丘 の伝説。
初めての雪を一緒に見るのなら、あそこが1番良いっすね。……まだ付き合えてるワケじゃないんすけど。
梓紗と一緒に雪を見られる事、その時の梓紗の反応を思えばオレも嬉しくて、つられた様にオレも笑顔を浮かべていた。
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