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第二話

 溜息を溢すと、幸人は彰の隣に陣取る。そして彰へと視線を向けた上で、彼は弁当箱を開いた。 「ボク、折笠幸人です」 「……は?」 「折笠幸人です」 「昨日聞いたぞ」 「ボクの、名前は、折笠幸人です」  なぜ繰り返すんだ、と彰が問おうとした瞬間「あ」と、先日の事を思い出した。 「……そう言えば、俺はお前に名乗ってなかったな」 「そうです、それです。ようやく分かりましたか」 「瀬上彰だ。覚えなくていい」 「彰先輩ですか、覚えました。仮にボクが自伝を書くとしたら、必ず彰先輩の名を書きましょう」 「何故に」 「ボクが先輩を大好きだからです」 「俺は男だ」 「ボクは気にしませんよ。それより、先輩にはいくつか聞きたい事があるんです」 「いや気にした方が良いような気もするが……何だ一体」 「先輩って、寮の何号室で暮らしてます?」 「? ……219号室だけど」 「じゃあ今度お邪魔しますね。ちなみにボクは308号室なので」 「来なくていいし行かないし」 「次の質問です。先輩の好きなものって何ですか?」 「静寂と安穏」 「物静かなボクとピッタリですね」 「違うな、全く違うな」  何故なら幸人のせいで、彰は既に汗だくであるからだ。 「いいか、俺がこの世で最も嫌う事は、人に好かれる事だ。本当に俺が好きなら俺の事を嫌え」 「今の日本語ですか?」 「ややこしいけどな」 「嫌え、ですか。そうですね、正直嫌う理由が見当たらないので、そのお願いは今の所聞けません」 「どうして。俺はこれだけぶっきらぼうだ。お前にどんな形の好意を向けられても、全て何かと理由を付けて断るぞ。何だったら理由も無いかもしれない。そんな奴を好む理由はあるか?」 「あります」  キッパリと、幸人は言い放つ。 「……その、根拠は」  あまりに潔い回答をされたので、つい聞き返す事が遅れてしまった。そんな彰の心とは裏腹に、幸人は先日と変わらぬ笑みを浮かべて、言うのだ。 「だって先輩、ホントは凄く優しい人ですから」 「意味が――意味が分からん。お前と会ったのは昨日一回だけだ。そんなお前に好意を向けられる理由も、ましてや優しい等と勝手に決められる筋合いもない」 「ボクに隠し事は出来ません。ボク、ウソツキは匂いで分かるんです」  自分の鼻を指さしながら豪語する幸人に、彰は少しだけ関心を抱いた。 「ほう、それは興味深い」 「あ、それは本心ですね。ではお話ししましょう。――人は嘘をつく時、若干の緊張を持ちます。これは分かりますか?」 「例え無意識下にあった嘘であったとしても?」 「そうですね。人間は自分に知り得る事以外を話す時、僅かに緊張を持ちます。それは『今話している内容が間違いかもしれない』という迷いから生まれる物だと、ボクは思っています」 「学術的に証明されているわけでは無いのか」 「どうなんでしょう。それを知ろうと思った事は無いので。話を戻すと、若干の緊張を持つと人間は大なり小なり発汗を行います」  それは彰にも分かる。幾度か経験のある人間も少なくはないだろう。 「ボクの鼻は、僅かな発汗の臭いも逃しません。確かに極度の緊張状態にある人が本音と嘘を混ぜた場合は別ですが、ウソに塗れたウソツキの発汗は、ボクにとっては一目瞭然です」 「鼻で嗅ぐのに一目なのか」 「それは言葉のアヤと言うものです。先輩は言葉尻を捕らえる事が得意なようですね」 「残念ながら学年成績一位だからな」 「で、どうです? これでボクの言葉を信じて貰えましたか?」 「ああ」  キッパリと、彰は肯定をした上で、ジロリと彼の事を睨んだ。 「そうだな。確かに俺は人に好かれる事自体を嫌っているわけでは無い。それは認めよう。しかし、それこそ嘘と言うより言葉のアヤと言うものだ。――俺は、人間が嫌いなんだ」  そんな俺が人に優しく出来る筈が無いだろう、と。彼は言い放つ。  そしてこの言葉から嘘を感じる事が出来なかった幸人は、ウッと息を詰まらせた。 「俺の名前を覚えるな。そして俺とはもう関わるな――俺はお前だけじゃなく、人が大っ嫌いだ」 「イヤです」 「、っ」  強く言い切った彰の言葉にも、しかし幸人は拒否の言葉を述べた。彰は苛立ちを隠すことなく、表情を歪める。 「先輩、勉強はできるようですけど、ボクの言葉を覚える事は苦手なようですね」 「どういう意味だ」 「ボクはね、先輩が『優しい人』だと言った。『優しい人だから好きだ』と言っているんです」 「知ったような事を」 「知っています。ボクは、先輩が本当は優しい人で、傷付いている事が分かります。  人が嫌いなのは本当なのだと思います。けれど、だからって先輩が優しい人だって肯定して、そんな先輩を好きになる事が、いけない事なんでしょうか?」  ――気持ちが悪い。彰は幸人へそう感じた。 全ての感情を読み取られているようで、そして彼が如何に「考え無しな愚か者なのか」と感じ、溜息を一つと共に立ち上がる。 「勝手に好きになり、勝手に俺の事を知った気になり、その上で俺の言葉すら聞かんなら、俺はお前の事が嫌いだ」 「そうですか」 「辛くないか? 悲しくないか? 好いた人物から拒絶され、そして尚好きで居る事を、苦痛に感じないか?」 「感じませんよ」  ニッコリ。その擬音が合う表情で、幸人は自信満々に言い放ったのだ。 「ボクが先輩を好きでいる事に変わりありません。どうぞ、ボクを嫌ってください。……嫌われるのは、もう慣れっこですから」 「慣れっこ」  彰は幸人のように、嘘を見抜ける技術を持ち合わせているわけでは無い。  けれど彼の表情は、嘘をついている表情では決して無くて、そして彰には、彼の表情にどこか、見覚えがあった。  そう、それは……達観した表情だった。 彼の歩んだ人生の時間は、百年生きる事の出来る人間にとっては短いだろう。  しかしおおよそ高校一年生の若人が出せる表情では無い事は分かったのだ。 「だから僕は、先輩に嫌われても構いません。僕は僕なりに、先輩を好きで居る為に努力するだけです。それを、否定できますか?」  首を傾げ、笑みを変えずに、彼はとんでもない事を問うてきた。 そんな事、出来る筈が無いのだ。 「……勝手にしろ」 「はい、勝手にします。先輩も勝手に僕の事を嫌ってください」  小さな箸で、弁当をつつく幸人。そして彰も溜息を一つ含みつつ、今一度席に腰かけ、ツナサンドに手を出した。  沈黙は続いたが、決して苦では無い時間だった。

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