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第9話 吾亦紅
鬨の声が遠くに聞こえた。
頼隆はふっと頭を上げ、周囲を見回した。
ー夢---か。ー
初陣の夢だった。緊張と興奮に身体を震わせ、無我夢中で戦場を駆けた。
初めて人を斬った。刃にずしりと人の肉の重さを感じた。降りかかる返り血が熱かった。これが人なのか---と思った。
それから、幾度か戦場に出た。
十四で元服し、十五で家督を継いだ。父は十八の時に戦の傷が元で死んだ。
佐喜は小国で、帝が倒れてから周囲からの侵略が絶えなかった。
父は周囲の国との同盟を図ることでなんとか国を保っていた。
幸いにも家臣団の結束は強かったし、戦にも強かった。それでも生き延びるには、周囲の大国の力を借りるしかなかった。
隣国には、金井-葉室-そして九神が勢力を競っていたが、父隆久は、九神を同盟の相手に選んだ。
九神の勢力拡大は目覚ましかった。
直義が十八で家督を継いだ後、世代交代の隙を突いて攻めて来る敵を次々に退け、元々が大国であった那賀を文句の無い強国に押し上げた。その影にはあの柾木を初めとする有能な家臣を数多く抱えていたこともあるが、その家臣をまとめ得る人望と才能が、直義にはあった。威圧感と裏腹の人懐こい笑顔が人の心を緩ませた。戦は激烈で、内政は慈悲深かった。隆久の目に狂いは無かった。あの事を除いては
---。
ー我れも、そのようになりたかった。---ー
頼隆は、闇の中に半身を起こし、傍らに寝そべっている男の顔をちら---と見た。眠っているようだった。
ふぅ---と頼隆の唇から重い溜め息が漏れた。
五年前に『あの事』があってから、少しして九神と白勢が共闘する戦があった。頼隆は『あの事』の後でかなり警戒していたが、戦の場では忘れていた。
初陣で知った人を斬る感触、人の血の熱さ---が嫌いではなかった。その血を浴びるごとに、相手の命が自分の中に宿り、自分を生き返らせてくれるような気がしていた。
無我夢中で刀を振るっていた。
ーしまった--ー
無心に成りすぎて敵陣深く入り込み過ぎたことに気づいた時には、志賀、兄の姿も無く、味方の兵は数えるほどもいなかった。
自らの失態に死を覚悟した。
その時---あの影が見えた。頼隆の周囲を取り囲む敵兵の輪を難なく切り裂いて、一枚胴の甲冑が目の前に立ちはだかった。
ー無茶をするな、小僧!ー
叱責の声は獅子の雄叫びのようだった。一枚胴の甲冑は、敵の輪をあっさりと壊滅させ、頼隆を安全な場所まで引き戻した。
ー怪我はないか?ー
ようやく死地を脱して、兜の中の顔を覗き込む---頼隆の目に写ったのは、直義の仏頂面だった。
ー大将が、なぜこのようなところにおる。ー
頼隆は気恥ずかしさに素直に礼が言えなかった。直義は頼隆の仮面をするりと解き、間近に顔を寄せて、睨んだ。
ー儂が仕掛けた戦で白勢の嗣子を死なせたりしたら、儂は白勢の家中に顔向けできん。それに---ー
頼隆は直義の指に顎をくい---と持ち上げられた。二つの眼光鋭い眼差しが真っ直ぐに見つめていた。
ーお前は、儂のものじゃ。勝手に死ぬるは許さぬ。ー
きょとんとする頼隆の唇をひんやりとした男の唇が塞いだ。一瞬ののち、ふっと離れて、そしてニヤリと笑った。
ー褒美はもらったぞ。早う仮面をつけ直して、陣に戻れ。ー
ぼかん---と見送るその目に写った背中は、大きく、力強かった。寄ってくる敵を薙ぎ払いながら、自陣に疾駆していく姿は稲妻のようだった。
ー我れもああなれたら---ー
頼隆は、ようやく見つけ出して安堵の息をつく志賀に、散々、叱られながら、そればかり考えていた。
同じ十八の年に父を無くしてからは、その思いは強くなった。
負けぬよう、追いつき追い越すまではいかずとも、肩を並べるほどの武将になりたかった。剣を初めとする武芸も一心不乱に磨き、学問にも打ち込んだ。なのに---。
ーそれが、なぜこうなる---?ー
自分が目指していた先の存在は、自分を『男』として認めてもくれなかった。女のように組み敷いて己のが欲望の捌け口として、頼隆の『男』の意気地を踏みにじる。
ー我れはそこまで情けない代物であったか---。ー
虚しさと哀しさで胸が引き千切られるようだった。
「どうした?」
暗闇の中で、膝を抱えるように踞る頼隆の背に、あの戦場で聞いた声が語りかける。武士の自分ではなく、己のが『情婦(おんな)』の自分に---。あまりの切なさに涙が頬を伝った。
「夢を、見た。」
頼隆はやっとの思いで呟いた。
「戦の夢だ---。」
直義の腕が背中から、頼隆を抱きしめた。抱え込むように逞しい胸元に引き寄せて囁いた。
「戦に出たいのか?」
頼隆は無言で頷いた。
だが、直義の返事は素っ気なかった。
「駄目だ。」
「何故じゃ。我れは武士ぞ、男ぞ。何故、戦に出てはいかんのだ。」
苦しげな呻くような掠れた声が喉を突いて零れ出す。
「何故このような、女のような扱いをされねばならんのだ。我れが何をしたというのだ。」
「儂を怒らせたからだ。」
平然という直義の言葉の意味が分からなかった。同盟を破棄したわけでもない、共闘を拒んだ分けでもない、湯原が謀反を起こした事を咎め立てするのは、国主として当然ではないか。
「意味がわからぬ。」
頼隆は直義に向き直った。
「佐喜は、白勢はそなたになんの不利も不利益も与えておらぬ。裏切ったわけでもない、なのに何故---」
涙が溢れてきた。止められなかった。ぽたり---と落ちて膝元で握りしめた拳を濡らした。直義は、ふぅ---と息をつき、頼隆の頬を両手で包んだ。
「お前は何もわかっておらぬ---。」
両手の親指の腹で頼隆の頬の涙を拭い、潤む瞳をじっと見た。
「お前には、人の心がわかっておらぬ。人の欲も思いもわかっておらぬ。」
「そのような---」
頼隆は言葉に窮した。何を言ったら良いのか、分からなかった。
直義は今一度溜め息をつき、だが、きつい声で、言った。
「それがわかるまでは、お前はこのままじゃ。戦になど出さぬ。もっての他じゃ。」
「そんな---我れは、女ではない。男ぞ。武士ぞ。」
「出さぬと言ったら、出さぬ。」
声を荒げて、頼隆の何か言い出そうとする口元を頭ごと自分の胸に押しつけて、黙らせた。
「いい加減、大人になれ頼隆---。そのままでは、いつまで経っても籠から出せぬ。」
その声音は、半ば嘆きにも似ていた。頼隆の頭を抱えたまま、直義は、格子の向こうのしらしらとした月を見た。
共に戦場を駆けたあの共闘の戦を思い出した。鋭い、早い太刀筋で敵の最中に斬り込んでいく頼隆の姿は勇ましかった。美しくもあった。しかし、駆け引きの上手い敵に引き込まれて囲まれた。
ー危ない---。ー
直義は、思わず、馬の腹を蹴り、そちらに一目散に向かっていた。かろうじて、無謀な少年を敵から救いだし、家中の者の手に返した。
ーなんという無茶を---!ー
と柾木に怒られた。が、それはさして気にもならなかった。
戦が勝利に終わった後も直義の気にかかっていたのは、頼隆の『危うさ』だった。戦も人の世も力で押しきれるものではない、知恵で測りきれるものでもない。頼隆の無防備さが気にかかってならなかった。
ーあやつは自分を守ることを知らぬ---。ー
ふ---と漏らした言葉に柾木が答えた一言が事を決めた。
ーなれば、殿が守って差し上げればよろしいのでは?ー
直義は天井を向いて唸り---そして心を決めた。
『惚れた相手を護れずして、国など護れん。』
仏であろうが、鬼神であろうが、直義には愛しい恋人---である。恨まれようが憎まれようが、沁々と心を通わすことも出来ないまま、儚い草葉の露と消えるような真似をさせることはできなかった。自らが、それを許せなかった。そして、戦を仕掛けた---殺さないための戦を---。
「そう泣くな---」
胸の中で、我知らずしゃくりあげている頼隆の背中を直義の手が優しく撫でた。大きな暖かい手で、震える肩を包んだ。
「いずれ---時が来れば、ちゃんと男として戦場に立たせてやる。一人前の大人になれたら、ここからも出してやる。」
「本当か?」
頼隆が、涙に濡れた面を上げて、直義をじっと見つめた。真っ直ぐな、無垢な眼差しが直義の瞳を見上げていた。愛らしく、いたいけな、震い付きたくなる可愛いらしさだった。
直義は、再び頼隆の細い肢体を褥に押し倒した。耳朶に吹き込むように囁いた。
「但し、儂の女であることに変わりはないがな---。」
抗議などさせぬ---と口づけて唇を塞ぎ、自分の身体で押さえつけて夜着の裾から覗く脚を強引に開かせる。
ーや---いゃーと懇願する瞳を見据えて雄を押しつける。
ー滾らせるお前が悪いのだ。お前が儂を滾らせるから---。ー
喘ぎ、啜り泣く甘い声が直義の理性を溶かして、もはや止められなかった。
ーお前は儂にはなれぬ。お前はお前にしかなれぬのだ---。ー
遠いあの戦場で、点々と吾亦紅が乱れ咲く様を血飛沫のようだ、と憧れにも驚嘆にも似た眼差しで見つめていた少年は、直義の腕の中で乙女になり天女になる---その喜悦に直義は酔いしれた。誰ひとり知ることの無い秘蹟を独り占めする快感に溺れた。
夜明けが近づいていた。
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