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第10話 未草

「あの方を如何がなさるおつもりですか?」 とんとん---と書類を軽く整えながら、柾木は主君の方に目を向けた。  机仕事に飽きた主は、とうに縁側に逃れ出て、ごろりと横になっている。  庭先の睡蓮を眺めたまま、背中が答えた。 「頼隆のことか---。」  「他に誰がおりますか?」  柾木は、ふぅ---と息をついて、筆をなめし、箱にしまった。  頼隆をこの城の『籠』に囚えてから、もぅ随分になる。戦や所用の無い時は、三日と空けずに組み敷いているのだ、大概気も済んだのではないか---と言いたげな顔で、柾木は言った。 「そろそろ返して差し上げてはいかがですか?」 「佐喜にか---。」 「左様にございます。」  柾木は見てはいない主君に頷いた。頼隆は、仮にも隣国の国主だ。若輩とはいえ武士として国主として、先陣を切って、刀を振るっていた男だ。  狭い『籠』の中に閉じ込められているだけならともかく、夜毎、男の腹の下で女のように啼かされ弄ばれるばかりの日々は、どれ程切なかろう---。 ーこんな事を続けていたら、あの方は死んでしまう。ー  肉体はともかく、『心』は確実に死ぬ。『白勢の鬼神』とまで言われた知勇に秀でた若者が、この先、その才を振るうことなく朽ち果てるのは、あまりにも哀れだ。せめて少しも気が済んだなら国許に返して、逢いたい時には呼べばよい---と思った。  情人として飼われていた過去を知られたくないなら、直義に背くことはなかろうし、第一、馴染んでしまえば直義という『男』をそうそう忘れることもできまい---と柾木は踏んでいた。  が、直義は、身動ぎもせず、一言言い放った。 「返さぬ。」  柾木は、半ば驚き、半ば呆れて問うた。 「何故に---でございますか?」 そこまで恋に盲しいているのか?或いはそれほど白勢幸隆が憎いのか?---柾木は言葉を失った。  だが。直義はう~んと伸びをして、呆然とする柾木をふぃ---と振り向いて言った。 「今帰せば、あれはすぐに死んでしまう。」 「は?」   身体を起こし、胡座をかいた 。直義の背中越しに中天の太陽が照りつける。 「何故かは知らぬが---」  直義は溜め息混じりに呟くように言った 「あれは、死にたがっている。自分を厭うている。---儂は、それが許せぬ。」 「殿?」 「儂はあれが愛しい。あれの素直さや率直さが可愛い。---だが、周りには狢やら蝮が牙を剥いておる。あのままではすぐに殺られてしまう。好き好んでそのような輩の餌食になるような真似はさせぬ。許せぬ。」 「殿---しかし---。」 「あれには、まだ教えねばならないことがある。それがわかるまでは『籠』からは出せぬ。」  柾木は狐のような目をしばたたいた。 「教えねばならないこと---ですか?」 「うむ。」      直義は肩の凝りを解すように軽く動かしながらむきなおった。 「あれに、『人』であることを教えねばならぬ。あれを『人』にせねばならぬ。」 「人---でございますか?」 「そうだ。そして乳離れもさせねばならぬ。」 「乳離れ?---ですか?」 「そうじゃ。幸隆から乳離れさせねばならぬ。」  直義は深く頷いた。頼隆の兄の幸隆に対する思慕は言わば赤子が乳をまさぐるようなもの、独り立ちをさせねばならぬ、というのだ。 「今帰せば、あれはまた幸隆という母親の懐に潜り込んでしまう。さすれば二度と出ては来るまい。」 ーだから、返さぬ---。ー 「なれば---」  柾木は訊いた。 「頼隆さまのため---と仰せになりますか。」 「半分は、な。」  正直な人だ---。柾木は苦笑いした。直義は、自分が頼隆の『母鳥』になりたいのだ。  直義の言う『人』でない頼隆が『人』になった時、真っ先に自分をその目に見せたいのだ。 『雛鳥』の頼隆の一番最初に見るものが、情人の自分でなければならない。---つまりはそういうことなのだ。 ー一度は壊さねばならない。でなければ、生まれ変われない。ー  直義は懐手でじ---と睡蓮を見た。情人のあどけなさの残る頬を思い出した。直義の胸にすがって『戦に出たい--。』と泣いた夜、その頬を濡らした透明な滴を思い出した。  あの涙は他の輩に見せたくない。自分だけが、泣かせてよいのだ。  頼隆を泣かせて、涙を拭って抱き締めてやる---その役目は、自分だけのものだ。  直義には、己のが胸の中で震えていた細い肩を自分以外の者が抱き締めることは、許せなかった。  柾木は微かな溜め息をついた。彼には、直義の本音は丸見えではあった。 ー殿は、どうしても独り占めなさりたいのか---。ー  致し方無い部分は、確かにある。婚姻の時から既に、正室の絢姫の心には別な男が棲まっていた。側室に入れた女達も密かに誰かに思いを残していた。母親は、弟を溺愛していた。  直義が、頼隆という誰の色にも染まっていない無垢な心を見つけ、我が物にしたいと切望した事を責めることはできない---と柾木は思っている。幸隆という壁はあるものの、幸隆と頼隆は、互いに『憧憬』であるがゆえに、その心には踏み込めない。 ー心が欲しいなら、活かしてさしあげねば---。ー  十歳に満たない頃から直義の傅役として、ずっと仕えてきた自分であればこそ、直義にも心から抱きしめられる、抱き閉めてくれる伴侶が必要なことは充分解っていた。  そしてたぶん、それは頼隆も同じことだ。  だが、それだけでは、頼隆も直義も育たない。互いに高め合うことこそが、心を繋ぐ『絆』になる、と柾木は確信していた。 ーだから---ー 「殿が如何にお育てあそばすかは存じあげませぬが---」  柾木は小さく咳払いをした。 「単なる情人に留め置かれるおつもりなれば、賛同は致しかねます。」 「柾木?」 「あのお方の男としての矜持を考えておあげなされ。---それに、あのお方の知勇は並みではござらぬ。  柾木の言葉に、直義は、ほぅ---とぎょろりとした眼をこちらに向けた。 「わかっておる。」 「では、如何に?」  柾木の言葉に、直義はうぅむ---と唸った。  柾木は、直義の正面に座り直した。居住まいを正し、両の手を膝に置き、深々と頭を下げた。 「私は、頼隆さまを、殿の片腕にお育ていたしたい、と思うております。」  相変わらず、 「片腕---?」 「私は、そう若くはございませんので---。」  直義の顔に驚いたような、寂しいようなのわんわわるしかし楽し気な笑みが浮かんだ。 「軍師に仕込む---か。」 「はい、お任せいただけますか。」 「よかろう。」  直義と柾木は、顔を見合せてに---と笑った。 直義は立ち上がり、縹の小袖の裾を払って、今一度伸びをした。 「顔が見とうなった。」 「お部屋に参られますのか?まだ陽も高こうございますぞ。」  柾木の顔に苦笑いが浮かんだ。 「まずは儂をしかと憶えさせねばならぬゆえのぅ---。」  いそいそと立ち去っていく直義の背中と机の上に置き去りになった書類とを、溜め息混じりに見つめる柾木の傍らで、睡蓮がふぅわりと綻んでいた。  

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