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第34話 枇杷
「ちと、付き合うて欲しいところがある。」
初夏を迎えた頃のことだった。師畿の城での生活も一通り落ち着き、領内の流通-賦役-課税の見直し、刷新もあらかたが施行され、師畿の城下町は活気に溢れていた。
頼隆は書院で、書物の整理をしていた。昼にはまだ早い時間に、珍しく直義が顔を出してきたのに、少々驚いてその顔を見上げた。その表情は何やら思い詰めたような、何かを決めかねているようでもあった。
―珍しいのぅ------。―
直義の歯切れの悪い様相というのは、共に過ごすようになって此の方、あまり見たことがない。先に見たのは、次男の嫁を取る話の時だ。家臣の娘と好きあっていたのを、外から正室を迎える段取りをしようとして、絢姫に叱られて以来だ。
「如何した?----何やら困り事か?」
頼隆は、書物を棚に戻し、直義に向いて座り直した。
「そうではないが------」
会わせたい人物がいる、という。
「良かろう。袴を付けるゆえ、しばし待て。」
「うむ」
女姿で------と言い出されなくて良かった、と頼隆は、ほっ、と胸を撫で下ろした。
「どこぞに惚れた女でも出来たか?」
襖越しに軽口を叩く。いつかは在り得ることとは思っていても、胸中穏やかなわけでもない。自分が、どのような表情をしているのか、一瞬不安になった。
が、それを見透かしてか、直義の呆れたような即答が返ってきた。
「そうではない。まったく---儂は何時だって、お前の守りだけで手一杯じゃ。」
「それは済まなんだな。」
若草色の袴に浅黄の小袖、直義好みの出で立ちで、改めて直義に向いた。
「して、何処へ行く?」ふ
「兄に、会いに行こうと思う。」
「兄?」
馬を並べ、師畿の城下町を抜けて、街道へ進む道すがら、ぽつりぽつりと、直義が話し出した。
「兄は------正室の子供だったが、生まれつき虚弱な質でな、武家の跡取りには向かぬとて、家中の者には言われておったが、------優しいお人でな。---」
幼子の時には、よく遊んでもらったし、学問も教えてくれた、という。
「ところが、な。正室の実家と我が父が干戈を交えることになってしまってな---。」
まぁ、よくある話だ。---と直義は眉をひそめた。たいがいは、実家と婚家が不仲になれば、妻は実家に返される。息子は父親の元に残る。
「困ったことに、父の正室は---『加納の前』は、父を亡き者にしようと目論だのだ---。」
「え?」
さっ---と頼隆の顔も青ざめた。仮にも領主たる夫の生命を奪おうなどと------露見すれば只では済まない。
「それを------父の膳に毒を盛ったのを知った兄が、先に自ら口にしたのだ。」
ふざけた振りをして、その菜を口に入れたのだ---という。
「それでは---!そんなことをしたら---!」
頼隆は、ごく小さな声ではあるが、思わず絶叫した。毒など妄りに口にしたら大変なことになる。身体の弱い者なら尚更、少量であっても生命に関わる。
「幸い------『加納の前』が用いた毒は、膳のもの全体に少しずつ紛してあったらしくてな。兄の口にしたのは、ほんの僅かな量だった。」
それでも、身体の弱い兄は七日七晩、生死の境をさ迷った---という。
「で、正室殿は如何なされたのだ?まさか---」
「我が息子が父を、夫を庇って毒を口にした事に、ひどい衝撃を受けてな、気狂いのようになってしもうた---。」
「では、お咎めは?」
「受ける前に、自害した。手元に残っていた毒を煽ってな---。」
「そうだったのか---」
「兄は父を救ったとは言え、己が母が謂わば謀反を企んだのだ。その罪ゆえに廃嫡され、勘当された。------父にな。」
直義は苦し気に絞り出すように言った。
「儂はな---父の正室に、『加納の前』に、いまわの際によくよくと罵られた---。」
お前さえいなければ---お前が毒を呑めば---―と怨嗟の叫びを残して、死んだ、という。
「だが、兄は一言も父も儂も責めなかった。『無事で良かった』と言うてな。」
「して、その兄上は何処においでになるのだ?」
ふと見れば、国境も近い。師畿と他国を隔てる早和原の関もすぐそこだ。
「この寺じゃ。」
指差す先に、立派な門扉に囲われた伽藍の屋根が見えた。
「あの毒でな---兄は一命は取り留めたが、目がほとんど見えなくなってな。寺にお預けになったのだ。」
「そうか---。」
頼隆はほんの少し、ほっとした気持ちになった。
―存命であられたか---。―
「着いて参れ。」
頼隆は、直義の後ろに続き、頭巾のまま山門を潜った。
「諒然和尚はおいでになるか?」
上がり框で大声で呼ばわると、小僧が足早に走り出てきて、平伏した。
「九神直義と申す。和尚にお目にかかりたい。」
慌てて中に戻った小僧は、今度は緊張の体で二人を坊の一つに案内した。傍らには大きな枇杷の木が枝を広げ、白い花を付けていた。
「お久しぶりでございますな。先だっては過分なるご寄進を賜り、有り難う存じまする---ご健勝でございますか?」
室内には、墨染の衣の僧都がひとり、穏やかな微笑みを浮かべて座っていた。
「諒然殿も息災なようで何より。」
直義は、僧と向かい合って座ると、頼隆にも座るように言った。
―頭巾は、取ってよいぞ。―と目配せをした。
僧が、一瞬、おや?------という顔をした。
「お連れさまがおいでとは、お珍しい---。」
うむ。---と直義は小さく頷いて答えた。
「白勢の頼隆どのじゃ。儂の軍師を務めてもろうておる。」
「白勢弥一郎頼隆にございます。お初にお目にかかります。」
恭しく一礼しつつ、直義が『まとも』な紹介をしてくれたことにほっとした。
「これはこれは------」
僧は、ほんの少し笑みをもらすと、真っ直ぐに頼隆の方に見えないらしい目を向けた。
「随分とお優しげな軍師さまですな。」
「見える---のですか?」
と、驚いて頼隆が問うと、静かに首を振った。
「お姿は見えませぬ。------が、随分とお優しい『気』をまとってらっしゃる。----お名を伺うまでは、直義殿が妻女を伴われておいでになったのかと-----いや、失礼を致しました。」
―まぁ、間違いではないがな---。―と小声で言う直義の脛を、頼隆は無言で抓った。
くすくすくす---と僧が笑みを漏らした。
「軍師さまは、直義の大切なお人のようですな。いや重畳、重畳。」
顔を赤らめる頼隆と苦笑いする直義に、僧は改めて真顔になって言った。
「して、本日は如何なされましたか?---拙僧に何ぞお話でも?」
直義は改めて居儀を糺し、真っ直ぐに顔を上げて、言った。
「諒然和尚。いや忠義兄上、本日は礼を申しに参った。」
「直義どの?」
「忠義兄上が御身を投げ打って父をお救いくださった。その尊いお心の礎あって、今日の九神が、あり申す。---兄上の九神へのご献身により、九神は天下に覇を唱えることが出来るようになり申した。」
直義の声が涙に詰まっていた。
「九神の頭領として、そのお志に深く礼を申し上げ、----本日をもって勘当を解かせていただきたいと存ずる。」
僧の見えぬ目が見開かれ、そして一滴の涙が頬を伝った。
「直義どの---」
「白勢どの---頼隆どのはその証人にござる。」
頼隆は笑みを浮かべ、大きく何度も頷いた。
兄弟の対面の後、寺を後にする直義の顔も、頼隆の胸も晴れやかだった。
「お前のおかげで、やっと長年の心のつかえをとることが出来た。礼を言う。」
直義は道すがら晴れ晴れとした声で言った。
「それは何よりだ。------そなたも兄者が好きだったのだろう?苦しかったな---。」
頼隆はこの上なく優しく暖かな微笑みで直義を見詰めた。
「兄上どのも、さぞや嬉しかったであろうのぅ。---」
「枇杷------」
「ん?」
「儂は子供の頃、枇杷が好物でのぅ------。よく兄上に採ってもろうた。二人でたんと食うた。」
「そうか------。」
穏やかな、心地よい夕暮れだった。
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