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第35話 浜木綿
「風が、心地よいのぅ~」
頼隆は、頬を撫でる潮風に目を細めた。
蒼く蒼く、どこまでも続く海原の上に、頼隆はいた。白い波頭が時折、大きくうねる。
「いいだろう、海は。」
野太いが、意外に涼やかな声が答えた。
傍らにいるのは、直義---ではなく、設楽輝信。
比治に向かう船の上に、彼らはいた。
「佐喜にも海はあるが、これほど青くはない。」
「こっちはかなり南になるからな。」
輝信は、腕組みした胸を反らせて、にんまりと笑う。薄い色の髪が陽に透けて、光の粒を纏っていた。
領主だというのに、国主だと言うのに、輝信の上半身は素っ裸だ。袴は麻の粗末なもので、膝辺りまで、たくしあげて縛ってある。筋骨粒々たる体躯は『鬼』の異名に相応しい。剥き出しの背も肩も陽に焼けて赤銅色に照り輝いている。
ーひどい格好だな。ーと頼隆は眉をひそめたが、輝信は気にも留めない、
ー船を操るにゃ、動きやすいのが一番。お上品な格好なんざ、してられねぇのよ。ー
からからと大きく笑って、甲板に踏ん張り、あちらこちらに指示を飛ばしていた。
「頭ぁ~、いましたぜ!」
舳先から呼び掛ける男は、水先案内人。平素は側近として、礼儀正しく輝信の世話をしている。
「いたか!」
輝信が歓喜の声をあげる。
「頼隆、こっちだ。」
輝信の手が頼隆の手を掴んだ。大きく厚い、頼隆の二番どころか三倍もありそうな手だ。
「な、なんじゃ?」
頼隆は、その掌の熱さに一瞬、ドキリとした。顔に血が昇りそうになったが、輝信は構わずに頼隆を舳先近くの甲板に引っ張った。
「まぁ見てみろよ。」
見遥かすと波間に、こんもりとした山のような盛り上がりが、大きくうねっていた。あろうことか、その真ん中から、潮が天高く吹き上がった。
「なんじゃ、あれは?」
目をまん丸くする頼隆に、輝信は得意満面に笑って、言った。
「鯨だ。デケぇだろ?」
直義の元に輝信が訪れてきたのは、十月ほど前のことだった。七瀬が九神に降り、七瀬より南、十葛(とおかずら)への派兵についての相談のためだった。
「十葛は七瀬よりでけぇ島だ。その名のとおり、十の氏族がいた。今は、夏葉(かよう)が勢力を奮ってるが、風縫(かざぬい)、真城美(まきび)も侮れない。」
輝信は、絵図を拡げ、島を指しながら、直義達の知らない南の国について、熱心に説明した。
「ふぅむ---。」
直義も頼隆も、さすがに唸った。
輝信は、言った。
「まぁ、十葛はこの師畿からも都からも遥か彼方だ。派兵も容易ではあるまい。」
「まぁ、なぁ---。」
確かに派遣する人馬の数、武器を考えると相当な準備を要する。正直、一番頭を抱えるのは、財政を担当する柾木だろう---頼隆は頭を巡らせたが、準備に一年、二年はかかる。
「そこで---だ。」
輝信は、一同を見回して言った。
「この戦、俺に任せちゃくれねぇか?」
「お前に---?」
頼隆と柾木と柚葉は訝し気に輝信を見た。そして、黙って腕組みをして目を閉じていた直義の方を窺った。九神に降ったとはいえ、輝信は七瀬の頭領だ。その勢力は強大だし、十葛と組んで寝返られたら、敵わない。
ーそこまで、信用できるか?ーという不安が四人の頭にはあった。
「まぁ、すぐすぐに俺を信用しろってたって無理なのはよく判る。だから---。」
輝信は、一同の顔を見回して、言った。
「別嬪さん、一度、七瀬に来てくれねぇか?」
「なんだと?」
これには、直義の眉が吊り上がった。柾木と柚葉も眉をひそめた。一番、嫌な顔をしたのは、当の頼隆だった。
「我れに何用があるというのじゃ?」
いやいや---と輝信は、手をかざして言った。
「見せてぇもんがあるんだ。他意は無ぇよ。」
「儂を差し置いてか?」
直義がなおもいきり立ったが、輝信はあっけらかんと一言、放った。
「一緒でも構わんが、九神どの、あんた船は苦手だろ?」
---結局、直義は、一度視察という名目で、七瀬に同行することになったが、船酔いのひどい直義は、都の南、汐入の港から半日の航路で、後を追う形になり、頼隆と輝信は、師畿の港から輝信の艦船で出航した。
「そなたがいらんことを言い出すから---」
出航前夜、直義は褥でとんでもなくしつこかった。
ー不義は許さんぞ。ー
ーせぬ、と言うておるではないか---ー
と言う頼隆を掻き抱き、身体中に口づけの雨を降らせ、蜜が出なくなるまで、いや出なくなってもイカされた。
ー案ずるな。そなただけじゃ。ー
そう言って口づけしても、見送る直義の表情は晴れなかった。
ー直隆も柚葉もいるというのに---ー
ふぅ---と息をつき、昼近くになって船が港を離れるのを心配そうに見送る直義に手を降った。
「嫉妬深いのか、愛情深いのか---
まぁ、仲の良いこって---」
さすがに目の下に隈の出ている頼隆に輝信は呆れたように笑った。
そして、一夜を船中で過ごし、次の朝、七瀬近くの海域に入って、それは現れた。
「あれが、鯨か---!」
ゆったりと動く姿は、山が雷動するようだった。水中から跳ね上がる姿は、そこにいきなり山塊が突き出るようだった。
「如何程の大きさがあるんじゃ?」
目を見開いたままの頼隆に、輝信は可笑しそうに笑って言った。
「そうさな、二尋くらいかねぇ。---肉も美味いんだぜ。」
「食えるのか?」
「勿論。俺達ぁ、あれを獲って食うのが、一番のご馳走なんだ。---まぁ、今日はやらねぇけどな。」
「なぜじゃ?」
「船が違う。」
頼隆達を乗せているのは、六門の大砲を装備した艦船である。鯨や他の魚を取るときには、それ用の船を使う---という。
「いったい、七瀬には、何隻の船があるんじゃ?」
「さあねぇ---もうすぐ港だぜ。」
艀の船が、二隻、三隻---とこちらに寄ってきた。
「頭、お帰りなさ~い。」
よく見ると漕ぎ手の中には女性もいた。これには頼隆も少し驚いた。
「女も舟に乗るのか?」
「比治じゃ、女も漁に出る。ま、近場だけどな。」
ぽんぽん---と頼隆の頭を軽く叩いて、輝信は、艀に乗り替えた。頼隆や直隆達もこれに続く。
「いやま~別嬪さんやね~。頭、どこから拐ってきたん?」
「よせや、ご招待したんだ。観音さまに比治を見せたくてな~」
「あらま。惚れちまって、どっかから拐(かどわ)かしてきたのかと思ったわ~。」
「よせやい。こいつぁ男だぞ。人妻だけどな。」
「輝信!」
女達の軽口に笑って応じながら輝信は、むくれる頼隆を浜木綿の淡白い花の揺れる丘の上の館へと誘った。
輝信の館は、師畿や安能の城とは異なる造りだった。高い石垣は無いが、周囲を高い石積の塀がぐるりと何重にも囲っている。
「ずいぶんと頑丈な塀じゃのぅ---」
不思議そうな頼隆に、輝信はあぁ---と頷いた。
「大風が吹くからな。師畿の辺りの城とは勝手が違う。ま、入れ。」
通された屋敷の中は広々として心地よい風が通り抜けていた。庭には見かけない南方の樹木や草木が、鮮やかな色を陽光の下に揺らしていた。
「日ノ本の国とは思えぬ---。」
「ここも日ノ本だぜ。」
苦笑いしながら、輝信は、侍女に二言、三言、言って、どっかと開け放した板の間に腰を降ろした。
頼隆は、勧められた輪座(わろうざ)に座り、辺りを眺めた。風の通りを良くするためか、あちこち開け放たれて、御簾で仕切りを作っていた。
「比治は暑いからな。着替えたらどうだ?用意してあるぜ。」
「良い---。」
とは言ったものの、さすがに厚物の小袖は辛い---。
せっかくだから---と侍女に従っていった先で、頼隆はまた頓狂な声をあげる羽目になった。
「輝信!、なんじゃこれは?」
鮮やかな黄色の地に極彩色で花鳥が、これまた鮮やかな色で描かれている。
「あぁ、紅型(びんがた)ってえんだ。ここよりもっと南の琉球って国の着物だ。あんたに似合うと思うぜ。」
ニヤニヤしながら言う輝信も、よく見ると藍地ではあるが、華やかな模様の描かれた着物を着流している。派手な柄が憎らしいほど、派手な造りによく似合っている。
「女物ではないのか?」
「生憎、ここの奴らはガタイがデカくてね---。まぁ、裾は足りると思うぜ。お袋が着てたヤツだからな。」
ぐ---と詰まったが、袖を通してみると、裾も袖も十分な長さがあり、女物には思えぬ大きさだった。
しぶしぶと着替えて、部屋に戻ると、輝信はご機嫌な顔で言った。
「膳が整うまで、まだちぃと間がある浜でも歩かねぇか?」
「良かろう---。」
頼隆は溜め息混じりで、上機嫌な輝信の後をついていった。
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