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第3話

晴翔の懐事情は火の車だ。  晴翔は私立の美大に通っていて、一人暮らしをしていた。家族が資金援助をしてくれるわけはなく、学費や生活費は自分で用意しなければならなかった。  表向きは多額の奨学金とバイトでそれを賄っているということにしていたが、本当のところはウリで生計を立てていた。それが一番手っ取り早いというのを晴翔は心得ていた。  しかし人を吟味するようになったので、前のような収入は得られない。    そういうわけで、そろそろ本腰入れてお金を稼ごうかと思い始めた矢先、晴翔の生物学的な父親、つまりは情事のあとに電話を掛けてきたあの父親が「同居しないか」と提案してきたのだ。  しかも、私立の美大に通っていることを知り、大学の学費を出すとまで言ってきたのだ。  何が目的かはすぐに察しがついた。  大方、懐柔して、骨髄移植に同意させようとしているのだろう。  父親の思惑は分かっていたが、目の前に餌をぶら下げられれば、背に腹は変えられない。ただの同居人を演じるだけで、学費、家賃、その他諸々の生活費が浮くのだ。  この際、今まで放って置かれて今更家族ごっとしようとしていることには目を瞑ろう。  父親の奥さんはもう亡くなっていて、晴翔の異母兄との二人暮らしだとは聞いていた。  その兄は病気なんだから、一人で寂しいんだろう。  妻を亡くし、子供は病気に罹った孤独な中年男性。 俺は優しいから、対価を貰えるんなら、みせかけの優しさならいくらだって提供できる。絆されそうな演技だってできる。晴翔はにやりと笑みを浮かべた。  優しくしても、絶対に骨髄なんて提供しないけどね。  そう腹の中で独りごちる。  どうせ、仕事で昼の間は居ないんだろうし、深夜に帰れば一人暮らしとそうは変わらない。  元々家に居ない方だし、土日も用事を作って出掛けていればいい。  そう思っていたのに。  そこには見覚えのある男が居た。もしかしなくても奴だろう。 「入院してなくていいんだ」  ぼそりと呟いた声はただのひとりごとのつもりだった。  しかし、どうやら聞き取れていたらしい。 「人が居ない間に親父に取り込もうってハラかよ? 流石だなあ」  切れ長の瞳に勝気そうな顔。  スポーツをやりこんでいましたと主張している健康的ながっしりとした体つきに短く刈られた髪。見た目は質実剛健という言葉が似合いそうなくらい清潔感に溢れている。  ただし、性格はこれ以上ないくらいに最悪だということを晴翔は知っていた。彼とは初対面ではないからだ。  それにしても。晴翔は徹の顔の造りを感慨深く見つめた。昔、一度だけ会って以来だが、徹の顔はよく見知っていた。鏡に映る自分の顔と照らし合わせて、げんなりしたことさえある。  半分だけしか血が繋がってないというのに、つまり、二人は似ているのだ。  そう自覚したときから、できるだけ記憶の中の兄から離れるようにうろんに生きていた。その甲斐もあって、今はそこまで似ていない。と思う。いや、そう思いたかった。  晴翔は同じ大学の女の子にだって可愛いと言われるし、髪は男にしては伸びている。肌は日焼けしていないし、脂肪だってついていない。身体を鍛えずに体脂肪を落としたから、よく華奢だと言われるし、やろうと思えば女装だってそこそこ似合う。  高校の文化祭でコスプレ喫茶をしたときは見知らぬ男子学生に連絡先だって訊かれたのだ。  そうやって、自分の顔に色濃く残る兄の虚像を振り払えていたと思ったのに、実際、再会してみれば、それはまったくの思い違いだったと思い知らされた。  見覚えのある顔。 鏡の中で毎日出逢うよく見る顔。  哀しいかな、全然他人の気がしない。 「俺を呼んだのはお父さん。ここに住んでいいって言ったのもお父さん」  晴翔は心の中で溜息をついた。  そして表面では精一杯の友好的な態度を取る。無視したり反抗的な態度を取るのは簡単だけれど、晴翔はそこまで子供では無かったし、愚かでもなかった。晴翔はこれからここに住む身なのだ。ならば、そういう態度を取るべきではない。  それは暗黙の了解だと思っていた。 「ねえ、確かに俺の存在は面白くないとは思うけどさ。水に流せっても言わないけど。でも、俺には何の罪もないだろ? 悪いのは俺達のお」  言葉を遮ったのは、ドン、という鈍い大きな音。 徹が壁を殴ったのだ。  家族構成柄、下手に出るのは慣れていた。  晴翔の生まれ育った家では晴翔の立場は弱かったから、晴翔は出来るだけ周りとの軋轢を生まないように家では静かに暮らしていた。透明な存在だった。  こういう時の対応も手慣れていて、平穏を装って晴翔は言う。 「仲良くしようってわけじゃない。できるだけ、あんたの視界に入らないようにする。だから、その俺が気に入らないのは分かるんだけどさ、そういう態度はやめてくれない?」 「お前がこの家から出ていったらな」  晴翔の処世術に、まるで取り付く島がない様子の徹。 「それは無理だよ。もう前の部屋だって引き払ってるんだ。もう子供じゃないんだからさ、駄々を捏ねるのは止めなよ」 「お前は、何様のつもりだよ?」  さあね。よくわからない。  晴翔は頭の中で返事をした。  だけど、これ以上兄を激昂させたらいけないってことだけは分かる。本心は殴り倒したいくらいだが、俺の住処はもうここしか無いんだ。ご機嫌伺いは慣れてる。  まずは徹の頭を冷やさせよう。  晴翔はそう決心して、徹をこれ以上刺激させないように、徹の望むまま、家から飛び出した。とりあえず、兄との再会は最悪で、晴翔の前には前途多難な道しかない。  やっぱり美味い話はそうそこら辺に転がってないものだ。

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