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第5話
肉欲に溺れていたのも束の間、結局、父親からの連絡で晴翔は再び家に戻ることにした。
徹を諌めてくれたらしく、再会した徹は睨みつけることはあったものの、危害を加えてくるわけでもなく、何を言ってくる訳でもなかったので、晴翔は笑顔で接した。
ただ表情は相変わらず強張っていて、俺の顔も見たくないんだろうな、と思う。
それだったら自分の部屋にでも引きこもっておいてくれよと思ったが、何故だか三人で食卓を囲むこととなった。
ホットプレートで食べる焼肉は初めてだった。
「ほら、もっと食べなさい」
そう言って、父は晴翔の小皿に肉を盛った。
いつの時代の家族ドラマなんだろうと、晴翔は心の中で苦笑する。
晴翔を出迎えた父は「今日は晴翔の引越し祝いをしよう。焼肉だ。奮発して上等な肉を買ったんだからな」と笑顔で言った。
脂っこいものを食べる気分じゃなかったし、焼肉なんかで喜ぶ年頃でもない。
しかし晴翔は嬉しいと無邪気に喜んでみせた。
自分の生活費を出している出資者が家族ごっこをお望みなら、それに応えなくては。
野菜が少ないことに不満があったが、父の機嫌を損ねてはいけないので、何も言わなかった。ただ喜ぶ振りをするだけ。そういう役割を演じるだけ。
気の乗らない食卓でも、せめて気分を盛り上げようと晴翔は好きな野菜を率先して食べていた。南瓜は甘くて美味しい。しかし、たまねぎは良く焼けていなかったらしい。気が早すぎたようだ。玉ねぎの辛さを麦茶で中和していると、父親が馴れ馴れしく晴翔に問いかけた。
「晴翔は今美大に行っているんだろう? 将来、何になりたいんだ?」
それは晴翔の嫌いな質問ナンバーワンだった。
よく訊かれる質問だから一応の答えを用意しているものの、どう考えても自分には無理だと分かっているから、答えるのが辛い。
「美術の先生になりたいんだけど、多分厳しいかなあって。競争率も激しいし」
せめてもの言い訳を付け加える。
何か学びたいものがあったりだとか、将来の夢や目標があったりしたから美大に行った訳じゃない。ただ、晴翔の初めての相手、つまりは中学生の時の美術教師の影響で、晴翔は芸術だとか美術だとかそういうアーティスティックな物にハマってしまったのだ。
その延長線上でしばらくの間、将来の夢は美術教師だったりしたのだが、自分の圧倒的な画力の無さにその夢を諦めざるを得なくなっている。
結局、美大も実技試験がある試験方法は全て落ち、国語と小論文だけで合格してしまった。
そのことに一抹の劣等感を持ち、どう足掻いても適えられない夢は存在するのだと嘆いて青春ぶってみたりもしたが、本当のことを言えばそんなことどうでもよかった。
将来なんて何も考えちゃいない。今が楽しければそれでいいのだ。
「試験を受ける前から諦めてどうするんだ? 教員免許は取るんだろ? ……兄弟だから不思議と似るのかなあ、徹も中学校の教員なんだよ」
「お父さん!」
徹が声を荒げた。
余計なことは言うな、と言いたげだった。
父は雰囲気を変えるために咳払いをした。
「ああ。あと、実は俺も大学時代は教員免許を取ろうとしたこともあったんだぞ。あまりにもやることが多すぎて、途中で止めちゃったんだけどな。もし、何か分からないことや不安なことがあったら、徹に訊きなさい。きっと役に立つはずだから」
「そうだね。そうしようかな」
そうは思えないから、晴翔は言葉だけ受け取っておいた。
晴翔は徹を見る。
何見てんだよ、と徹は晴翔を睨んだ。相変わらず目つきが悪いなと思う。
お互いがお互いを嫌っている。そのことは分かっているのだが、もういい年齢なんだからもっとうまくやれないのだろうか。
色々遺恨があろうとも、今は同じ屋根の下で暮らす者同士なのだから、いくらでも大人になる方法はあるはずだ。それなのにそういう一切合切を放棄して、駄々をこねる子供のように感情的になっている。
少しくらい、敵意を向けられ続ける俺のことを考えてくれればいいのに。
そう考えてみれば、徹の子供じみた我が侭に付き合い続けている自分があほらしくなった。
このままやられっ放しなのも面白くない。
「あのさ。俺が気に食わないのは分かるんだけど、そういう風に睨み付けるのやめてくれない? あんたも、もういい大人なんだし、俺がこの家に居るのが嫌だったら出て行けばいいんじゃないの?」
間違ったことは言っていないつもりだったし、心情を吐露したことに後悔もしていない。
だが、晴翔の正論にカッとなった徹はテーブルを力強く叩いた。
食器の揺れる音がする。
「徹ッ。やめなさい!」
父がそれを窘めたが、徹は舌打ちをして立ち上がった。
「俺、そろそろお腹いっぱいだから。ごちそうさま」
そう言い終わるや否や、自分が使った食器を流し台に持って行って、徹はそのまま自室へと駆け上がっていった。
「……すまなかったな。あいつのことは気にするな。拗ねてるんだ」
謝らなきゃいけないのはあんたじゃないだろ。
晴翔は心の中で悪態を吐いた。
しかし、その苛立ちを隠しながら晴翔は箸を進めた。ご機嫌伺いには慣れていた。
徹の所為で険悪になってしまった雰囲気を元に戻す為に、晴翔は適当な話題を振って食卓を和ませる。
自分のことを話してみたり、まったくもって興味はないが場を繋ぐために父親の仕事について訊いてみたり。
話題も尽きかけた頃、晴翔は疑問に思ったことを訊いてみた。
「そういえば……徹お兄さんって思ってたより元気だな。入院してるんだと思ってた」
そもそも二人になったのだから、骨髄移植の話をすると思っていたのだ。
しかし、父親が話題にしていたのは、晴翔の生活だとか交友関係、好きな音楽や趣味だとかもっぱら晴翔に関することばかりで、一向に徹の病状だとか骨髄移植だとかの話に辿り着くことはなかった。
――少しずつ俺に取り入るつもりなんだ。
晴翔は思う。
無理やり仲のいい親子を演じてもそこに意味はない。
こんなことで長年の隙間を埋められる筈がないのに。
大体、そんなことで自分を懐柔できると思っている父親にも嫌気が差した。馬鹿にされている気がした。しかし調教された従順な奴隷のように、晴翔は反抗心や不快感なんて微塵も出さない。
「治ってはいるんだ……一応な」
聞いた話と違う。
骨髄移植が必要で、その為に俺に骨髄の型を調べさせたのではなかったのか。
「ただ、また再発するかもしれないんだ。そうなったら、今度は骨髄移植をしなきゃいけない」
なるほど。
つまり晴翔は念のために用意しておく程度のものだったらしい。所詮は安売りされている消耗品を買い溜めしておくようなそんな感覚なのだ。
「悪くならないといいね」
それが本心なのか正直分からなかった。
もう、どっちでもいいとさえ思っていた。
「そうだな」
父親はそんな晴翔の心の裏を知りもしないで、頷いた。
「でも、もし再発したらお前は骨髄移植をしてくれるか?」
その質問は想定済みだった。
晴翔はあらかじめ作っておいた答えを口にする。
「骨髄移植って色々リスクがあるんでしょう? 何日か入院もしなきゃいけないみたいだし……別にしてもいいとは思うんだけど、いざ自分がってなるとやっぱりちょっと怖いな。それに肝心の相手があの調子だし」
少々演技くさい気もしたが、相手に尻尾を振る意思を示せればそれでよかった。
「まあ、そうだよなあ。あいつの態度はないよなあ」
父親はため息をついた。
「詳しくは聞かなかったけど、どうせ今日の昼もお前に突っ掛かったんだろ? 気持ちは分からんでもないが、あいつもお兄ちゃんなんだし、うまいことやれないもんかね。別にお前が悪いわけじゃないんだしなあ。その点、お前は素直で助かるよ」
「でも、俺、あいつの気持ちも分かる」
考えなしに咄嗟に言葉が出てきた。
だが、それはよりにもよって兄である徹を庇う言葉だった。
「いや、別に、あんな奴のためになんか骨髄移植したくないし、するつもりもないけど。っていうか、そもそも悪いのはあんたじゃん。あんたが不倫なんかして子供まで生ませるからだろ。不倫なんだから、せめて避妊くらいしとけよ。あいつは何も悪くないよ。むしろ被害者だろ」
失敗した。どうして、こんなことを言うんだろう。
こんな言葉で関係性を悪化させるつもりはなかったのに。居心地が悪い。
「ごめん、俺、もう寝ます。明日早いし」
取って着けたような理由をつける。
それに呼応するように父親が言った。
「ああ、もうこんな時間だしな。明日も仕事だし、そろそろシャワー浴びて寝るか。おやすみ」
「うん。おやすみ」
演技のような夜の挨拶を終えると、晴翔は二階の自室と言われた部屋に駆け上がった。
それからたまらなくなって、枕に顔を埋める。
別に兄を庇うつもりも、父親を非難するつもりも無かった。
それなのにそんな言葉が不意に口から沸いて出た。
「どうして?」が頭の中で反芻する。
無尽蔵に増えた「どうして?」に押し潰されそうになる。
それを止めたのはノックの音だった。
誰かは分からない。だけど、父親だろうと晴翔は予想した。
寝たふりをしてしまいたかったが、相手がこの家の主である以上、無視するわけにはいかない。
「何か用?」
散々迷って最初の言葉はそれにした。
さっきまでの話は終わったことにして欲しかった。
「あ、いや……すまなかったな、と思って」
「不倫して俺を産んで?」
尖ったナイフのような心持ちで、晴翔は言った。
ただ、そのナイフで何を傷つけたいのかは分からない。父を困らせたい訳ではないのだ。
今更こんな事を言ったって何の解決策にもなりはしないのだから、これはただの八つ当たり、あるいは自傷行為だ。それは分かっていた。でも、分かっていても、止められはしなかった。
父親は何も言わずに困った顔で呻いた。
無意味だ。こんなことは止めよう。
そうは思うけれど、父親の反応に晴翔は軽い苛立ちを覚えた。感情ばかりが溢れる。
自分が何をしてきたのか、彼はちゃんと理解しているのだろうか。
肉欲に身を任せたが為に、何人もの人の人生を滅茶苦茶にしてきたのに、たった一言の言葉で謝罪が終わったとでも思っているのだろうか。
「別にいいよ。俺もごめん。言い過ぎた。……もう俺ももう寝るよ。今日引っ越していたばかりでさ。疲れてるんだ」
そう言って強引にドアを閉めると、相手も諦めたらしい。
すぐに離れていく足音がした。
晴翔はベッドに乱暴に飛び込む。
身体が重たく感じた。――寝る前にシャワーを浴びなきゃ。ああ、でも、今日は昼にホテルでシャワーを浴びたから別にいいか。……今日は長い一日だった。晴翔は今日の出来事を頭の中で反芻させる。密度がありすぎて、頭がパンクしそうだった。しかし、瞼を落とせば意識を失うまで、そう時間は掛からなかった。
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