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5月3日。俺は、本当に浮かれていた。
でも、浮かれていたっていいとも思っていた。
先生と約束の日。
車に乗せていってもらうことになって、最寄駅から少し離れた大きい駅で待ち合わせをした。
10分ほど前に、もうすぐ着くよとメッセージが来ていたので、ロータリーのところで待っている。
先生の私服はどんなだろうか。
服に興味というよりは、きょうは、他の生徒には見せない自然体の先生が見られるはずで、そのひとつが服だということにわくわくしていた。
目の前にぴたりと車が止まった。
シルバーの普通のコンパクトカーで、窓が下がると、少しこちらに身を乗り出した先生と目が合った。
「成瀬くん」
「こんにちは」
頭を下げながら、バカみたいにドギマギしている。
先生の私服。本当にラフなオフホワイトのパーカー姿。
大学生と言われても信じてしまうかもしれない。
「どうぞ」
声をかけられ、遠慮がちに助手席に乗る。
足元は細身のブルーデニム、赤いスニーカー。白い曲線が入っていて、コーラの缶を連想する。
「高速を使って、1時間ちょっとかな。お腹空いてたら、サービスエリアでなにかつまむ?」
「唐揚げがあったら食べたいです」
「うん、あるある」
シフトレバーを手前に倒し、ゆっくりとハンドルを回し始めた。
不覚にも、横顔にドキドキしてしまう。
室内にはうっすらいいにおいが漂っているけど、消臭剤の類は置いていなさそう。
ということは、これは先生の髪か柔軟剤のにおいか……。
「ん、成瀬くんなんかいいにおいする」
「えっ?」
見透かされたように言われた。
「そうですか?」
「高いシャンプー使ってるとか?」
「いや、親が買ってきてるんで、気にしたことなかったです」
「そっか」
先生は何か言いかけたけど、反対車線が途切れたので、大胆に右折した。
フェリーに10分ほど揺られると、青々とした木々がこんもりとする島が見えてきた。
少し身を乗り出しのぞいていると、先生が俺の背中のあたりの服を引っ張った。
振り向くと、いつもは大人しい丸いボブが風でばらけて、先生は楽しそうに笑っていた。
ますます、学校では見られない姿だなと思う。
アナウンスが、まもなく桟橋 に着くことを告げる。
フェリーが止まりぞろぞろと出ていくと、小さなビーチではやんちゃそうな大人たちがバーベキューをしていた。
「ここだけ見ると、無人島な感じはゼロですね」
「あはは、そうだね」
先生はそれを横目に見ながら、楽しそうにしている。
「あそこ。案内地図がもらえそう」
指さしたのは売店のような受付で、他の人たちがリーフレットをもらっている。
俺たちも受け取り、地図を見た。
道は二通りしかなくて、見どころは左の道に集中しているようだから、そちらを歩いていくことにした。
見た目よりは角度があるらしい坂道を上がっていくと、レンガづくりのトンネルや、昔の弾薬庫とか、遺産が色々あった。
「すごいですね。アニメみたい。それかRPGゲーム」
「ちょっとした異空間トリップでしょ?」
「はい」
勉強ばっかりに心血を注いでいた自分がいかに小さかったかが、よく分かる。
この無人島の自然はうんとうんと昔からここに息づいていて、それが突然人間のエゴで戦争の砦 となり、その後放置され遺跡になって、好き勝手に観光地化されて、そしていま俺がここにいる。
全部の歴史を、拒絶することもなく静かに受け入れ見守っていたのだと思うと、テストの点がなんだ、と、心の底から思えた。
「自分の悩みなんてちっぽけだなーと思いました」
素直な感想を述べると、先生は俺に目を合わせて、にっこりと笑いながらゆるく首を横に振った。
「ちっぽけなんかじゃないよ。成瀬くんが感じたことは、成瀬くんにしか分からない大事なものなんだから」
「いや、でも、この光景はすごい」
あたりをぐるりと見回してから、空を見上げた。
5月の新緑のすきまからチラチラと見える真っ青が、きらめいている。
「すごい」
確かめるようにもう1度つぶやくと、先生は1歩詰めて、俺の真横に立った。
肩が触れ合ったまま、同じように見上げて、ほうっと息を吐く。
「うん、すごいね」
一瞬、本当に抱きついてしまうんじゃないかと思った。
なんで? という戸惑いと、危なかった……という安堵で、息を止める。
しかし、そんな俺の心のうちなど知らない先生が、遠慮なしに、俺の頭をぽんぽんとした。
あまりの驚きに、心臓がドキンと鳴った。
顔を見ることもできない。
先生はまだ俺の頭をあやすようにたたいていて、数センチ高い位置にある口元から、優しい声色の言葉が紡ぎ出された。
「僕はどの生徒もみんな大切な教え子で、どんな子でも可愛いと思うし、大事に思ってる。高校生はもう大人に近いんだけど、僕にはどうしても、可愛い子供たちにしか見えない。教育者として良くないことは分かってるんだけどね」
先生は、空を見上げたまま、俺の頭にあった左手をそっと離した。
「成瀬くんは、なんだか放っておけない子。特定の生徒と遠出するなんて、本当は絶対にやっちゃダメなことなんだけど。幸い僕は3年の担当ではないし、成績でひいきする立場ではないから……と、この2週間、自分自身にいーっぱい言い訳して来た」
言い終わった先生はようやくこちらを向いて、にっこり笑った。
「内緒にしますよ」
俺がまじめに応えると、先生は眉根を寄せて笑い、こくりとうなずいた。
「教員生活のなかの良い思い出として、きょうのことは一生大事にするから。来てくれてありがとう」
「俺の方こそ、連れてきてくれてありがとうございました」
感謝の言葉を述べられて、改めて、これは1回きりのことなんだなと思った。
そんなのは当たり前すぎるのだけど、なんだか寂しい。
きょうが来るのを待ちわびすぎていたからかもしれない。
最低な行為が伴っていたにしろ、ふたりで出かけるのを楽しみにしていたことには変わりなかったから。
島の端の岩場。波が磯のでこぼこに当たって弾ける。
狭い島で、アトラクションがあるわけでも、名物の生き物がいるわけでもない。
ただ静かに景色を見ただけだけど……それは先生が予告した通り、見たことがないキラキラしたものだった。
先生は、デニムの後ろポケットに差し込んでいたリーフレットを広げた。
「全部回ったかな。帰ろうか」
「はい」
日が落ちるには早い時間だけど、港の周りを少し散策したり、どこかでお土産を買ったりしたらちょうどいい時間だと思う。
フェリー乗り場に向かって、ゆっくり歩き出した。
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