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第6話 忘れたい過去とざわつく心②
* * *
それから約二週間に及ぶ研修を経て、オープンに向けての本格的な準備が始まった。
それまで料飲部の宴会・レストラン合同で行われていた準備も各セクションに分かれての準備に切り替わった。
暁人の配属された宴会サービス課は二階にある八つの宴会場を受け持つ。三百五十人ほどまで収容可能な大宴会場『ガーネット』、百十人ほどまで収容の『アメジスト』『アクアマリン』、二百人ほどまで収容可能な『パール』、それから小規模宴会などで六十人ほどまで収容の『ペリドット』『サファイア』、少人数の会議や食事会に使われる十名まで収容の『オパール』『トパーズ』がある。
その日は主に宴会で使う備品類の準備だった。館内施設のクリーニングは業者が入って行われたが、テーブルやチェアをはじめ、細々とした備品のクリーニングは社員で行う。基本的な作業が掃除や物の移動やクリーニングになる為、数日前から「動きやすい服装で」という指示が出て、皆ティーシャツやジャージといった軽装で黙々と作業を続けている。
暁人は、昼過ぎから竹内と宴会で使うグラスやシルバー磨きの作業中だ。時折たわいのない会話をしながら、裏の洗い場でグラスやシルバーを洗浄機にかけ、上がったものから拭き上げて片づけていく。
「あーもう! こういう繰り返しの地味な作業って意外と疲れねぇ?」
ワイングラスを磨きながら横で呟いた竹内に、暁人は「そうですか?」と返した。
「俺は、こういうの嫌いじゃないですけど」
「あ、そっか。柴くん製造ラインにいたんだったよな。じゃあ、慣れてるか。俺、絶対無理! 一か所にじっとしてるのとかマジ苦手」
以前いた職場では大きな製造ラインで精密機械の組み立てをしていた。同じ場所で細かな作業をすることも割と性に合っていた。あんなことさえなければ、暁人はいまもまだあの会社で働いていたかもしれない。
「竹内さんは確かに苦手そうですね、こういうの」
「そ! だからこの仕事してんだよね」
そう答えた竹内が時計を見て「あ、三時じゃん」と言い、両手をぶんぶんと振りまわしてから「皆さん、三時なんで一旦休憩しましょう!」と皆に声を掛けた。
課長の葉山が不在のとき、こういった作業スケジュールは竹内が代理で管理している。宴会サービス課には女性の主任の大久保もいるが、社員の中のムードメーカーでもある竹内が大久保にそういったことを託されているのだ。
竹内の一声にそれぞれの場所で作業を進めていたスタッフたちが待ってましたとばかりに顔を上げて立ち上がると、その場で思い思いに身体を伸ばした。
「皆、お疲れ。総支配人から差し入れだ」
そう言ってペットボトルのお茶の入った段ボール箱を抱えレストランに入って来たのは葉山だ。集まった社員たちに手際よくお茶を配り、自分もそのうちの一本を手にして自然と輪に馴染んだ。
入社から半月以上経ち、それなりに一緒に過ごす同じ部署の顔ぶれにも慣れ、皆の距離感も縮まりつつあるが、それに一役買っているのはこの葉山の存在だ。
課長という自分たちの上に立つ立場ではある分、厳しく指導するところはとことん厳しいが、オンとオフの切り替えがはっきりしていてそれを引き摺ることはしない。仕事を離れた休憩時間に後輩や新人と他愛のない話をしている姿は上司というより、ごく普通の気のいい兄貴といったふうだ。
研修時のきっちりとしたスーツ姿とは違い、こうして髪を降ろしラフな服装でいる葉山はさらに若く──そこまで考えて暁人は飲みかけのお茶を持ったまま停止した。
そういえば……あの人、いくつだろ。
「おい、柴。おまえの都合は?」
ふいにその葉山に声を掛けられて「はい?」と暁人が間抜けな声を返したのは、その話を聞き逃していたからだ。
「だからー、明日の仕事のあと暇かって話」
「何かあるんですか?」
暁人が訊き返すと、葉山の代わりに竹内が答えた。
「てか、柴くん、全然話聞いてないじゃん。明日、新人歓迎会するから、都合どうかって! てか、新人は強制参加だから。他の奴らは大丈夫だからほぼ明日に確定であとは柴くん次第」
「あ……それなら大丈夫です」
歓迎会──本来そういったものもあまり得意ではないが、新人歓迎会という名目上、避けては通れないことくらい暁人も分かっている。
暁人は基本的に職場の人間とプライベートで深く関わり合うことは避けたいと思っているが、社会人として円滑な人間関係を構築するために避けられない付き合いというものもある。
「お! レアキャラ柴くん、ついに参加⁉」
「何ですか、レアキャラって……」
「だって、何度か飯誘ったのに断られてばっかりだし」
「いや。あれは、たまたま予定が入ってただけで……」
人と一定の距離を保ちたいと思うのは、油断して近づき過ぎると踏み込まれたくない場所に踏み込まれてしまう可能性がある。
思い出したくもない苦い記憶が呼び覚まされる。
世間的には「普通」でありたい。悪意の塊のような好奇の視線に晒され、必要以上に傷つけられる──あんな思いはもうしたくない。人と距離を置くのはある種の自衛だ。
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