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決して言わない(2)
飲み会も終盤に差し掛かった頃、縁は手洗いに席を立った。
「あ、すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」
トイレは店の奥にあり、他の席はもうほぼがらがらに空いている。
トイレの近くは四人掛けの席になっていて、目隠しに暖簾がかかっていて中が見えないようになっている。
用を足して戻ろうとする途中、その中の一つから声が掛かった。
「遠山くん、ちょっと」
「はい?」
暖簾を分けて中に入ると、立っていたのは環だった。
すかさず環は右手を縁の背後の壁について、出入り口を塞ぐ。
「昼間あんまり話せなかったからさ。ちょっとお話ししようよ」
「別に、ここでなくても話せますよ」
「いやいや、二人で話したいの、俺は」
相変わらず口許は笑っている。
「はあ。何ですか?」
環は一歩距離を詰める。ほぼ体が触れる距離だ。
ムスクの香りが微かにした。
「俺と付き合わない?」
「は?」
「好みじゃない?俺じゃ駄目かな?」
縁は右を向いて顔を背けた。
「なんで俺なんですか?」
環が空いている手で縁の顎を掴んで強引に相対させる。
「単純に、顔が超好み。あと、良い体してるし。笑顔もキュート。一目惚れだよ。これ以上ないね」
「…」
縁は黙って目をそらす。
「…お断りします」
「他に好きな人がいるから?」
「!」
「ああ、睨んだ目もセクシーだね。…二課の色男だろ?香住奏太」
名前が出た瞬間、縁は体を固くした。
「俺は何でも知ってるんだよ。大方、愛媛から転勤してきたのも奴のためだろ?……でも哀れかな、報われない」
「それでも、好きなんです」
「うーん。健気だね。……でも俺も、君が好きだよ。そりゃ、出会ってからの日数じゃ負けるけど、情熱じゃ負けないつもりだ」
「……」
「振り向かない奴のために君が一人になるのはもったいないよ」
だんまりを決め込む縁に、案外簡単に環は降参した。
「……分かった。割り切ろう。体だけでいい。心までくれとは言わない。報われない恋だけじゃ、やりきれないだろ」
「……」
「君のために望むだけの便宜も図ろう。こんな俺でもそれなりの力はあるんだよ」
ごくりと唾をのんで、縁は環を睨むように見上げた。
「……条件があります」
「なんでも聞こう」
「俺らの関係を、社の人間に悟らせないこと。あと、仕事上の便宜は結構です。実力で評価されたいので」
「かっこいいこと言うじゃない。いいよ。他には?」
「ありません」
「じゃ、契約成立だ」
環は縁の顎を掴んでいた手を離すと、キスをした。
「よろしくね、縁くん」
「よろしくお願いします、織江さん」
「環でいいよ」
「……環さん」
最後に力強く抱き締められて、縁は解放された。
その後、飲み会がどのようにして終わったのか、どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
今までも、体だけの関係を結んだことは何度もあった。
それほど罪の意識を覚えたこともない。
なのに、この体たらくはなんだ。
縁が誰とどんな関係であろうとも、奏太は責めることなんてない。
だから自己満足でしかないのに、罪悪感で吐きそうだ。
◇ ◇ ◇
家に帰って、浴槽に沈んだ。
割り切ろう。
ここしばらく、誰とも関係を持っていない。
割り切ろう。
単なる性欲の捌け口だ。
環だってそうとしか思っていないはず。
考えすぎだ。
昔はそんなに深く考えて付き合ってなかっただろう?
「ねぇちょっと、縁大丈夫?ずいぶんお風呂長いけど」
心配した姉のまりあが浴室の外から声をかけてきた。
「大丈夫」
「そぉう?のぼせないようにね」
足音が遠ざかるのを聞いてから、縁は風呂から上がった。
鏡を見ると、案外無表情な自分がいた。
そうだ。大したことじゃない。
◇ ◇ ◇
リビングでは、まりあがソファで温かいお茶を飲んでいた。
「俺にもお茶ちょうだい」
「カモミールだけどいい?」
「うん」
ガラスのカップに薄い色のお茶が注がれる。
「もう冷めちゃってるかも」
カップを鼻先に近付けると独特の香りがする。
薬臭いような香りが、心を落ち着ける。
「ねえ、ふられたみたいな顔してるけど、どうしたの?」
まりあの言葉がいい得て妙だった。
ふられた。
確かにそんな気分だ。そんなことはないのに。
「もしかして、奏太さんと何かあったの?」
「ふふ。何もないよ」
笑えるくらい何もない。何も変わってない。
「ねえ、ちょっと甘えてもいい?」
「いいけどぉ。もう眠いからちょっとだけよぉ」
まりあの側に寄って、その膝に頭を載せる。
柔らかな感触と温もりが全てを赦してくれる。
まりあの指が髪を撫でている。
「ねえ姉貴。浮気ってなにかな」
答えはすぐに返ってきた。
「約束を破ることよ」
「そうだよね」
約束すらしていないのに、勝手に思い込んでいただけだ。
「ふわぁ……もう寝ましょ」
ベッドに横になって明かりを消した。
「おやすみ」
「おやすみなさぁい」
暗がりの中、まりあの寝顔を眺めているうちに、いつの間にか縁も眠っていた。
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