慌ただしい出張だった。台湾ブランチのセットアッププロジェクトが動いていたのだけれど、情シス部から出していたプロジェクトメンバーが出張当日の朝、交通事故で入院し、僕は病院で慌ただしく引き継ぎをして、そのまま台湾へ飛んだ。 　幸い怪我は大したことがなく、僕はその一回の出張だけでチームをはずれたので、慌ただしかったという以上の感慨も思い入れもなくて、記憶は曖昧になっている。 「そうだと思いました」 　鮫島は気分を害す様子もなく、するするとビールを飲んで笑って、唇についた泡を舐めた。 「俺、現地採用なんです。日本に帰る予定はなかったんですが、宇佐木さんと話したら、急に里心がついて日本に帰りたくなって、ブランチマネージャーにも社長にも無理を言いました」 「現地採用ってことは、台湾国籍なの？」 「俺は日本国籍です。父親が日本人、母親が台湾人のハーフです。日本で生まれ育ったんですが、中学生のときに両親が離婚して、母親と台湾に帰りました。そこで母が鮫島という日本人と再婚したんです。ちなみに灯は、中国語ではダンと読みます。春樹はチュンシュー、若芽が吹いた樹木を意味するいい名前です」 　そよ風が吹くような笑顔を向けられて、僕はサングリアのグラスに口をつけた。 「家族は置いて、一人で来たのか」 「一人です。両親は高雄という街にいます。高雄もいいところですよ」 「奥さんや恋人はどうした」 「いません。恋愛は長続きしなくて。最短記録は一日です」 　鮫島は肩を落として笑う。 「理想が高いんだろう」 　身を乗り出してからかう蒲田さんに対して、鮫島は素直に頷いた。 「はい。初恋の人を越える人はなかなかいません」 「初恋の人？　そんな思い出補正されたキラキラした存在を理想に掲げられたら、太刀打ちできる人はいないな」 「おっしゃるとおりだと思います。でも、今でも好きなんです」 「へえ。聞こうじゃないか、その初恋の人の思い出を」 　蒲田さんは鮫島のグラスにビールを注ぎ足して、話を促す。 「遠足のバスで隣の席になりました。たぶん挨拶したくらいで、一言もしゃべれませんでした。窓際の席に座っていて、僕が隣に座るときにちらっとこっちを見て、すぐ窓の方を向いちゃったんですけど、その一回のちらっていう視線に射抜かれました」 　鮫島は今、その場にいるかのように手のひらで胸を押さえ、顔も耳も首まで真っ赤に染めて笑った。 「視線っていうのは雄弁だな」 「はい。好きになっちゃって恥ずかしくて話し掛けられないから、通路を挟んだ反対側に座ってる友だちとめっちゃ下ネタを話したんですよ。俺としては気を惹こうと思ったんです。今思えば、完全に選ぶ話題を間違えました」 「そりゃそうだ」 　蒲田さんは大きく口を開けて笑い、鮫島も白い歯を見せて笑っていて、僕も蒲田さんの笑顔を見ながら笑った。