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第31話

 僕が一人で切なくなっているあいだ、蒲田さんは僕の髪を掴み、前髪に頬を押し当てていた。 「俺は嫉妬できるポジションにいない。自分でもちゃんとわかってる。お前に堂々とアプローチできる鮫島を羨ましいなんて思わない」  その声が苦しそうに聞こえたのは、僕のうぬぼれだろうか。  抱え込まれて不自由な腕の中で目を上げた。蒲田さんは眩しそうに目を細める。僕がキスをねだって顎を上げたら、 「ばか。できるか、そんなこと」  そう言ったクセに、唇が触れ合った。桜の香りとグリーンティリキュールの苦みをまとった舌に絡め取られ、僕は夢見心地だった。  小さくドアベルが鳴って、蒲田さんの動きが止まった。口を外し、視線を追ってドアを見ると、鮫島が立っていた。表情を変えることなく、僕たちのところへ歩み寄ってくる。 「すぐに経営企画室のメンバーが来ます」  鮫島の言葉に蒲田さんは落ち着いて頷き、僕の頭を解放した。  僕はドリンク代をテーブルに置いて、スツールから滑り降りる。 「明日は何時出社だ」 「八時」 「ちゃんと来いよ」 「もちろん。お疲れ様でした」  スプリングコートを掴んで鮫島の前をすり抜け、入ってきた経営企画室のメンバーにもお疲れ様です、お先ですと挨拶しながらすれ違って店を出た。  蒲田さんは追ってこなくて、僕は一人で散った花びらが風に転がる道を歩く。キスした唇だけが熱くて、夜風に吹かれる身体は冷たかった。  明くる日、僕はいつもの席にいて、歩み寄ってきた鮫島がデスクに手を掛けるとき、その手の甲が不自然に僕のマグボトルにぶつかった。マグボトルは鮫島の計算通りに転がって床に落ち、鈍い音を立てる。  タイルカーペットが敷かれているから大丈夫だと思ったのに、大きく角がへこんでいて、ますます鮫島の計算通りだと思う。 「すみません、買って返させてください」 「大丈夫だよ、このくらい」  そう言ったものの、保温機能がダメになっていて、へこんだ部分に手をあてると内部の熱が伝わってきた。 「買って返します。あとで一緒に買いに行きましょう」  鮫島の言葉に、僕が小さな声で「お気遣いなく」と呟いたのは聞こえなかったのか、無視されたのか。 「たくさん種類がありますね」  終業後、僕は鮫島と一緒に繁華街の大きな雑貨店にいた。鮫島はマグボトルが並ぶ棚全体を素早く見渡し、定番商品、ロングセラー商品、新商品のスペックを読み、実際に手に取って確かめる。僕はその間にショートサイズのドリンクが入る、洗いやすいシンプルなマグボトルを手に持った。

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