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第33話
「だから何もないんだってば。僕が一方的に好きなだけだよ。蒲田さんは僕が片思いがつらくて会社を辞めないように、舵取りをしてくれているだけ」
僕は今まで目を逸らしていた現実を言語化して、への字になる口の中へほろ苦い春菊を押し込んだ。
鮫島は僕の口の動きを見ながら言った。
「恋愛というのは、距離と時間なんだそうです。近い距離で長い時間を過ごすほど、親密度が上がると言われています。宇佐木さんは、蒲田さんと毎日一緒に過ごしていますから、そういう感情が芽生えるのは自然なことだと思いますよ」
その声は温泉みたいに温かくて優しくて、僕は口の中に春菊を含んだまま、不覚にも涙をこぼしてしまう。すすりあげた鼻水と春菊を無理矢理一緒に飲み込んだ。
「人を好きになる気持ちは止められません。でも相手が既婚者なら、どこかで諦めなきゃいけないですよね」
口調は優しいけれど逃げ場のない正論に胸を突かれ、僕はうなだれた。
「……うん」
「諦めるのを、俺に手伝わせてください」
うなだれたまま、目だけを上げて鮫島を見た。
「どうやって」
「仕事以外の時間を全部、俺が埋めます。さしあたり、今夜いろいろ考えてしまわないように、明日の朝まで俺が一緒に寝ます」
鮫島はスマホをタップして、僕に検索結果を見せた。
「どこがいいですか」
僕はずらりと並ぶ部屋の画像と説明文を見て、正直に言った。
「こういうところは行ったことがないんだ。どこがいいか、僕にはわからない」
「俺も日本のラブホテルは経験がありません。一緒に冒険気分で行きましょう」
信号待ちの点字ブロックの上で、僕はスプリングコートの襟に顎をうずめ、上目遣いで赤信号を見ながら本音を言った。
「緊張する」
「嬉しいです。俺にいいところを見せようって意気込みですよね?」
「そうなのかな」
「そうですよ。どうでもいい相手だったら、緊張なんかしません」
青に変わって同時に一歩を踏み出した。信号を渡った先はホテル街で、突然世間の喧騒から切り離された。変に静かで、歩く人たちは必ず二人連れで、すれ違うときは何となく顔をそらす。
「もしタイミングを合わせられなかったら、すみません。そのときは最後まで責任を持ってフォローします」
仕事の前打ち合わせのような口調に僕が小さく笑ったとき、鮫島の手が僕の腰に触れ、向こう側が見えない自動ドアを通り抜けた。
「地下のダンジョンを攻略して城の上にたどり着いた勇者みたいな気分」
部屋に入るなり鮫島は軽く肩を竦めておどけ、僕は勧められるまま先にシャワーを浴びて、バスローブ姿でベッドの上に座った。
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