翌朝、僕たちは時差出勤する工夫もせず、普通に会社近くのカフェでモーニングを食べて、一緒にオフィスへ足を踏み入れた。人間の三大欲求がすべて満たされて、鮫島も僕も足どりは軽かった。 　でも、蒲田さんの横顔を見つけた瞬間、足が止まってしまった。隣を歩いていた鮫島がすかさず僕に笑顔を向ける。 「宇佐木さん、イヤホンを借りたままでした。お返しします」 　ポケットから取り出したワイヤレスイヤホンを片方だけ返してくれて、自分のスマホの画面を見せる。 「朝だからアップテンポな曲がいいですよね。中国語だから、歌詞が仕事の邪魔をすることはないと思います」 　Ｒ＆Ｂのような音楽に合わせ、パワフルな女性の歌声が流れ込んできた。 「音楽を聴いていれば大丈夫。沈黙も優しい言葉も怖くありません」 　鮫島はもう片方のワイヤレスイヤホンを自分の耳に引っ掛けて短く笑い、僕たちは同じリズムにのって歩いて自分の席についた。 「お、宇佐木。おはようさん」 「おはようございます」 「さっぱりした顔をしてるな」 　左右に目を動かして僕の心身の状態をチェックする。新しく買ってもらったマグボトルに口をつけ、コーヒーを口に含むと、蒲田さんは片頬を上げた。 「いい物を買ってもらったな」 「使いやすいです」 　蒲田さんは小さく頷くだけで、会話が一瞬途切れたが、僕の耳には音楽があって気まずくなかった。 「午後、少し話せるか。人員配置の件で話したい」 「わかりました。今日の午後はいつ声を掛けてもらっても大丈夫です」 　少し離れた場所で鮫島がスマホを操作するたびに音楽は変わって、さながら鮫島セレクトのノンストップチューンを聴いているようだった。 「単刀直入に訊く。鮫島との関係は悪くなっていないか」 　午後、ガラスで囲われたミーティングルームで開口一番にそう言われた。 「うん。同い年だし、住んでいる場所も近くて共通点が多いから、コミュニケーションはとりやすいよ」 　蒲田さんはうなずき、机の上に両手を組んだ。親指の爪を反対の親指で撫でるクセを好きだなと思う。 「先日お前が言っていた、情シス部を二つに分けてマネジメントするという話を、上に話してみた。やってみろと許可が出た」 「本当に？」 「二つに分けたうちの一つを宇佐木、もう一つを鮫島がプレイングマネージャーとして担当する案はどうだ」 「鮫島？　情シス系の知識はあるの？　知識ゼロからは大変だと思うよ。鮫島なら何が何でもやると思うけどさ」 「宇佐木がそう思っているなら大丈夫だな」 「個人的な印象だけで、裏付けはないよ」 「裏付けはある。あいつの前職は台湾に拠点を置く大手システム開発会社の営業マンで、マネージャー職まで務めていた。台湾ブランチのスターティングメンバーをアレンジして、マネジメントしたのも鮫島だ。日本での経験と実績がないのが不安要素だが、経営企画室でレジュメを作ってるよりはいいだろう。宇佐木と鮫島に負担を分散できれば、俺も心置きなくテレワークや時短勤務ができる」 　蒲田さんの口許に小さく笑みが浮かんだ。