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第10話
すぐに戻って来た安永君が、僕にコップを手渡し、ビールを注いでくれる。
「生ビールの方がよかったですか?」
「ううん。どちらでも」
「俺、味はよく判らないんですけど、生より瓶の方が好きなんですよね」
「どうして?」
疑問に思った僕が尋ね返すと、彼は初めて柔らかい微笑みを浮かべた。
「こうやって、注いだり注がれたりが出来るでしょう? 生は持って行ったらそれで終わり。何人かで来てても、1人で飲んで終わり。それがなんだか、嫌なんですよね」
「…へぇ……」
なぜだか、妙な処で感心してしまう。
「2杯目からは、コウに注いでもらって下さい」
盆を持って立ち上がった安永君に「ありがとう」ともう1度言う。一瞬驚いた顔を見せた彼は、「いいえ」と頭を下げた。
「高次ー」
カウンターの中から呼ぶ藤堂君に「おー」と返事して、カウンターへと歩いて行く。
見ていると、藤堂君は何人かの客とは顔見知りのようだった。カウンター席に座った常連客らしい何人かと、楽しげに話している。
ビールのつまみ代わりに、僕の知らない藤堂君を見ているのは、なんだか楽しかった。安永君とじゃれ合いながらおかずを選び、安永君に器へと盛ってもらっている。ご飯を盆に乗せて、席へと戻って来た。
「安永君って、いい子だね」
僕が言うと、藤堂君はまるで自分が褒められたかのように、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あいつってさー、ツンデレだろ?」
そう言ってケタケタと笑う。
「藤堂君って、このお店にはよく来るの?」
「うん。って言うか、前はこの近くに住んでたんだ」
「今のマンションに住む前?」
「そう。正しくは離婚するまで」
そう言って悪戯に微笑むと、わざとらしく唇に人差し指を立てて「しーっ」と言う。
「お待たせしました」
盆に何品かのおかずを乗せた安永君が、テーブルの脇に盆を置く。おかずをテーブルへと置こうとして、手を止めた。
「コウ、先生のコップ空じゃん。ちゃんと注がなきゃだろ」
言って、ビール瓶を持とうとする安永君を、藤堂君が両手で制した。
「ダメダメ。先生は酔うと記憶飛ぶもん」
「はあ?」
何ソレ、と安永君が眉を寄せる。怪訝なその視線に、僕は苦笑を浮かべるしかなかった。
「先生って、アルコール弱いんですか?」
構わずコップに注ぎながら、訊いてくる。「いや、そうでも」と首を傾げかけて、藤堂君に睨まれた。
「酒飲めないと、人生の3分の1損しますよ」
おかずをテーブルの上に並べながら、静かに笑う。それにつられて藤堂君が上機嫌に笑った。
「先生、こいつの言う事って意味不明だろ?」
安永君を指差し、肩を震わせる。
「でも理由聞いたらさ、不思議と納得しちゃうんだ、俺」
「魚もお酒もおいしいのにって意味?」
「それも勿論ありますけど。例えば魚が食べれないと、旅行行った時とか、美味しく食べられるものあんまりなかったりしませんかか?」
「海の近くとかだと特にね」
「でしょう? 酒飲めない人は、どうしても付き合いとかに制限が出てくるんじゃないかと思うんですよね。こうやって居酒屋に来る事もあんまりないだろうし」
そう言って、周りの騒いでいるお客達を見回す。そう言えば、今まで行った店もそうだったが、居酒屋には笑い声が溢れている。この前先輩と行ったホテルのバーも好きだが、こんな賑やかな感じも嫌いではなかった。
「居酒屋の子供って事もありますけど、俺はこの雰囲気が好きなんです。――ほら現に、今だって 俺が作ったさば料理を食べれないし」
並べ終わったおかずを示す。
テーブルには冷奴に鶏の唐揚げ、カボチャの煮物にベーコンのエノキ包み、肉じゃがと味噌汁が乗っていた。
「どれがいいか判んなかったから、ほんとテキトーに選んだよ」
ありがとう、と言いかけて、さっき藤堂君が好きだと言っていた魚料理が乗っていない事に気付く。
「あれ?」
僕が呟くと、それに気付いた安永君が「今日は食べないそうですよ」とひと言添えた。すぐに他の客から「すみませーん」と声をかけられて、そちらへと向かって行く。
「魚嫌いな人って、匂いもダメって聞いた事あるからさ」
箸立てから割り箸を取ると、藤堂君はそのうちの1膳を僕に渡し、いっただっきまーす、と元気に手を合わせた。
――ああ。この子は、こんなふうに他人に気を遣える子なんだ。
些細な事だからこそ、そう思う。
大学に行きたいと言う藤堂君の話に耳を傾けながら、安永君の作った肉じゃがを口にした。
「どこ目指してるの?」
訊くと、さあ? と言うように首を傾げる。そして「今から頑張って行けるトコ」と、唐揚げを頬張った。
「今からなの?」
高2の冬。「今から」と言うには、少し遅い時期のような気がした。
「そ。大学行こうって思い始めたの、つい最近だから」
「そうなんだ」
「……でも俺、合格出来るかなぁ?」
上向き加減で、独り言のように呟く。
「欲を出し過ぎなきゃ大丈夫だよ。きっと」
僕の言葉に驚きの表情を浮かべ、藤堂君は箸を揺らしてみせた。
「欲なら出すよ、俺。なるべくいいトコ行きたい」
そう言って微笑み、食事を再開する。
「頑張ってね」
「……うん、ありがと」
こんなありきたりな言葉なのに、『口先だけの』とも取れる励ましの言葉なのに、とても嬉しそうな顔をする。
その顔を見ていると、なぜかいたたまれない気持ちになった。
何も出来ないくせに、何かをしてあげたくなって仕方がなかった――。
「先生。コウを、泣かしたりしないで下さいね」
食事を終えて会計をしていると、レジを打つ安永君が顔を上げずに言った。
「……え?」
僕が訊き返すと、上目遣いに見上げてくる。
「一昨日、コウを泣かせたでしょう?」
「え?」
一昨日は、先輩との事がバレて怒らせはしたけれど、彼は泣いてはいなかった筈だ。
僕が心底驚いているのを見て、安永君は少し表情を緩めてみせた。そうして、カウンターで安永君のご両親やお客達と仲良く話している藤堂君の方へと顔を向けた。
「コウはね、あの男に殴られても決して泣いたりしないんです。いつも笑って、俺が家に来いって言っても、ウチの両親に心配かけたくないからって笑って断るんです。だけど昨日は、目と唇の端を腫らして学校来て……。殴られた痕はいつもの事なんですけど、目は明らかに泣いた後で。俺が『どうしたんだ?』って訊いてもそれには答えずに、『高次。やっぱ歯医者の先生と俺とじゃ、住む世界が違うのかな』って、そう言ってまた笑うんです。先生の所為ではないのかもしれないですけど、コウは先生の事で、泣いていましたよ」
複雑な気持ちで店を出ると、藤堂君が「先生、俺の分」と言って財布を出そうとする。それを断って、僕は諭すように藤堂君へと言っ た。
「こういう時はね、年上に出してもらうモノだよ。それに、藤堂君の連れだったから、まけてもらえたし」
「でも、俺が誘ったのに……」
申し訳なさそうに俯いた藤堂君に、僕はしばらく考えてから「それじゃあ」と手を打った。
「今度、ウチに遊びに来る時は、プリン買ってきて」
「は? プリン? なんで?」
不思議そうに訊いてきた藤堂君に、僕は少し唇を尖らせながら言う。
「僕はこう見えてプリン好きなんだ。でもコンビニで買うと、なんだか店員が半笑いな気がするんだよねぇ」
一瞬呆気に取られた藤堂君が、顔を伏せるようにしてクスクスと笑う。
「解った。山ほど買ってく」
「山ほど? それなら毎日寄って、責任取って一緒に食べてもらわなきゃ」
「ははっ」
笑い続けている藤堂君には、『いつでも頼ってウチに来て』という僕の気持ちは、伝わっていないんだろうな。
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