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確かに、恋だった。(4)

「悪い、待たせた」  俺が昼飯を食べ終わった頃、昼飯を乗せたトレイを持って現れた舞島の姿に「なんも」と声を投げて見上げるように彼の顔へと視線を寄越した俺は、次の言葉を繋げる事が出来なかった。何故かといえば、彼の整った顔にあるべきではない手形が赤く付いていたからだ。思わず吹き出し大笑いしてしまった俺に、舞島は憮然として「笑うこた無いだろ」と口にしながら俺の真向かいの席へと腰を下ろす。そして、日替わりランチである酢豚を食べながらも彼はポツリと言葉を零すのだ。 「ファーストキスは檸檬味なんて誰が言い出したんだろ。初恋がレモン味だっけか」  恐らく酢豚の酸味と思考回路のどこかが合わさって零された言葉なのだろう。彼には時折そういう事がある。言葉遊びの一環か、何かの思考実験か。独り言なのだろう彼のその言葉に俺は茶化す口調で言葉を投げる。「何、ほっぺたの紅葉を作ってくれたコがファーストキスか?」俺の予想が正しく、更には投げた言葉が正であれば相手は片倉で、しかもそれは告白してすぐのキスになる。そうなると俺の叶わない恋は更にどうしようもない事になるのだけれど、それで頬を腫らすくらい叩かれるなんて事があるだろうかという疑問も出てくる。笑い声で自身の感情を誤魔化しながらも問いかけた言葉に、舞島は「バカ、ファーストキスくらいは済ませてあるわ」と箸で俺を指しながら言葉を返す。その言葉に彼女がいた事はあるのか、と少しだけ胸の痛みを感じながらも「童貞のくせにぃ」と揶揄う口調のままで言葉を紡ぐ。俺は今、笑えているのだろうか。表情だけは笑みの形で歪めたまま、俺は言葉を重ねていく。 「で、その紅葉はどうしたって?」  聞きたくないけれど、正しく絶望をした方がきっといい。少しの期待と、少しの恐怖が混じった言葉を笑ったままで彼に投げれば、彼は正直に授業が終わってからここに来るまでの経緯を教えてくれるのだ。 「さっき告白されて、女に興味ないって言ったら平手打ちが飛んできた」  その言葉に、俺は声を上げて笑う。コントのような経緯もそうだけれど、今回も彼は誰かと付き合う事がなかったという安堵もあった。そんな俺に揶揄われていると思ったのだろう舞島は切れ長な目元をジロリと俺に向ける。整った顔で睨まれるのは威圧感があるにはあるけれど、三年目になる関係の中で幾度もあり慣れていたし――何より彼が俺を睨んでいるという事は、舞島の視線が俺に向いている事だ。拗らせた片想いによる判定は、今や睨まれていても視線を受けているという事実の方に傾いていた。俺は声を上げて笑ったままで「女に興味ないはないわぁ」と普通の男友達の距離感で彼の断り文句にダメ出しをする。そんな俺の感想に舞島は綺麗な所作で酢豚を食べながらもその間に淡々と俺に言葉を返す。「事実興味ないんだから仕方ないだろ」本当に興味なさげに言葉を紡ぐ彼に食い下がるように、今までの会話で浮かんだ疑問を舞島へと投げる。「でも、ファーストキスは済ませてあるんだろ?」流石に笑いの発作は過ぎ去って、普通に疑問として投げた俺の言葉に、彼は少しだけ考えて――きっと、過去の彼女の事を思い出していたのだろう――静かに言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから形の良い薄い唇を開いた。 「あれは清く正しい付き合いだったから良いんだよ」  そうして過去を思い返すように、何かを噛みしめるように小さく笑みを浮かべた彼を現実に引き戻そうと俺は無駄に言葉を投げる。少しくらい図々しい事を言っても大丈夫な程度には関係を構築出来ていた自信もあったのだ。 「でもさぁ、舞島に告白したのってどうせ片倉だろ? めちゃくちゃ可愛いじゃん。折角なら付き合ってみればよかったのに」  顔がいいってズルいよなぁ、このモテ男め! なんて戯けた調子で口にすれば、彼は真面目な顔で首を横に振る。「可愛いとか可愛くないとか綺麗とか綺麗じゃないとか、外見の問題じゃないんだ」そして彼は、女と付き合うつもりはないよ。と言葉を重ねていく。そんな彼の言葉に、俺は思わずふぅん、と零してしまう。――なら、俺となら付き合ってくれる訳? 思わず口にだしそうになった言葉を喉の奥で飲み込みながらも、口は勝手に「男なら付き合うのか?」と言葉を紡いでいた。そんな俺の言葉に首を傾げた舞島は「試したことはないな」と普段と変わらない淡々とした調子で言葉を返す。彼が返した言葉は、同性同士という点に対しての嫌悪感が見えなかった。同性のそれに嫌悪感を持っているのであれば、試したことはないなんて言葉にはならないだろうという打算もあった。魔が差したといってもいいかもしれない。俺が咄嗟に返した言葉は、彼の言葉に対しての同意でも冗談だと打ち切る言葉でもなく「じゃぁ試してみる?」という誘いの言葉であった。表情筋に笑みを貼り付けたままに告げた俺の言葉に、彼が少しだけ眉を顰めたのに言葉を間違えたかと心臓が止まりそうになる。彼の唇から零れた言葉は、俺が予想したものとは別の言葉で。 「お前彼女居ただろ」  浮気はダメだろとでも言いたそうな表情で俺を見つめる舞島に、人知れず安堵した俺は「別れたよ」と返す。「っていうか振られた」そう重ねた俺の言葉にまたか、と彼は表情を変えた――といっても、その変化は小さなもので、無表情に少しだけスパイスが足された程度のものなのだけれど。彼は基本的に表情筋が死んでいるのだ。そんな彼に俺は顔に笑みを貼り付けたまま、後から冗談だと誤魔化せる程度の軽い調子で言葉を重ねる。「俺はどっちもいけるタイプな訳よ。男なら舞島がドンピシャで好みだったりするんだよね」カラカラと笑いながら、冗談めかして告げた言葉はこれで諦めようという、最後の悪あがきだった。どうせ叶わない恋ならば、冗談であっても口に出して伝えたかったのだ。結果はどうであれ彼に告白する権利を持てる女の子と同じように、俺はお前の事が好きなのだと、せめてそれを口に出したかった。エゴイズムと自己保身の塊みたいな冗談を、舞島と出逢ってから二年と少しの時間を共に過ごした俺は彼へと告げてしまったのだ。どうか、どうかお願いだから、冗談キツいとか何とか言って、笑って終わらせてくれ。表情筋には笑みを貼り付けたままで「――なんて、冗談だけどな」とこの話を終わらせようとした俺は、その言葉を最後まで告げる事が出来なかった。俺の言葉が終わる前に、舞島が一言だけ、しかしはっきりとその言葉を口にしたからだ。 「いいよ」  舞島の言葉に固まった俺は、ようやく「え、」とその一音だけを口から零す。むしろ、それしか口にする事が出来なかった。揶揄ってるだろ、とか、そんなマジにしちゃった? とか、返す言葉はいくらでもあったけれど、俺がどう返す事が正解なのかと混乱しているうちに、舞島は先程と同じ言葉を再び口にした。 「いいよ」  お前が試してくれるんだろ? なんて口にしながら形の良い唇を小さく上げてクスリとお手本みたいな笑みを浮かべた舞島は、ちゃんと俺をエスコートしろよ。と言葉を重ねる。夢なら覚めないで欲しいなんて思いながら、俺は慌てて声を上げた。「勿論っ!」食い気味に出した言葉に自分でもびっくりしながら「あっ、でもっ、隠しておいた方がいいよなっ?」と彼の意向を確かめる。 「お前が好きなようにしろよ、俺はお前に合わせるから」  綺麗な笑みを浮かべながら俺のどこか浮き足立った言葉に静かに答える彼は、綺麗な――しかし男のものだとはっきりと分かる手を俺へと差し出して俺へと告げる。 「それじゃ、改めてよろしくな。彼氏くん?」  すらりとしたその手を俺は両手で握り締め、あまりに唐突に訪れた幸せに頰が緩むのを感じながらも宣戦布告のような言葉を口にした。 「俺にメロメロにさせてやるから、覚えとけよっ!」  そう言った俺に小さく笑みを浮かべて「楽しみにしてる」と言葉を返した彼の表情を、突然やってきた幸せで頭がいっぱいだった俺は見ていなかった。俺は、その瞬間の幸せで、勝手に満たされてしまっていたのだから。

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