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甘く深い接吻から(1)

 俺たちが暮らすこの街に花が咲き乱れる季節が来る少し前、友人であった碓氷との関係に恋人という新しい名前が付いてから数週間。路傍の小さな彩りから始まった花の季節は駆け足と共に過ぎていった。元々ゴールデンウィークにはなにも予定がなかった俺は稼ぎどきだとばかりにバイトを入れてしまっていて、彼なりに気を使ったのかデートという言葉ではなく遊びに行こうと誘ってくれた碓氷の誘いを殆ど全て断る事になってしまったのだ。 「エスコートしろって言ったって、エスコートさせてくれる相手が出てきてくれないとエスコートは出来ないんだぜ……?」  互いのスケジュールを付き合わせて頭を抱えながら呟く碓氷に何度か謝りながらも、俺は朝から夜までバイトに埋め尽くされたスケジュールの中でぽっかりと空いていた土曜の夜に飲みに行かないかと提案する。そうすれば、彼はくるりと表情を変えて俺に向かって嬉しそうに笑って見せた。多分、この先も彼に告げることはないだろうけれど、俺はくるくると表情を変えて明るく笑う碓氷の事を、存外気に入っているのだ。 「舞島って、タバコ吸うんだ」  関係性が少しだけ変わったという事を良い事に、その夜俺は碓氷の前でタバコを取り出していた。苦手と言われたら吸わないつもりではあったけれど、一言断りを入れれば「別に平気だけど」と前置きして、彼は少しだけ驚いたように目を丸くしてそんな言葉を口にした。タバコ自体は法律的に許される歳になる前に覚えていたけれど、人前では吸わずに隠れて吸っていた。部屋についたにおいで、家族にはバレていたが。その事に目くじらを立てるのは、家族の中では数時間違いで生まれた双子の妹くらいだったのだ。 「あぁ、人前では吸ってなかったけどな。お前の前ならいいかな、って思って」  碓氷の言葉に、素直にそう言葉を返してやれば、やっぱり彼は嬉しそうに笑うのだ。その表情に、俺は少しだけの罪悪感と、少しだけの優越感を覚えていた。罪悪感は、彼と同じように彼を好きにはなっていないという事で。優越感は、彼にだけ教えた小さな秘密を喜ばれた事に対してだ。 「でも、お前顔がいいからめちゃくちゃサマになってるよな」 「そうか?」  楽しそうにミルクベースのカクテルを呑みながらそう口にする碓氷に、俺はビールを喉に流し込みながら思わず笑ってしまう。噎せる程にはならなかった俺の反応に、彼は「お前もうちょっと自分の顔がいい事を自覚した方がいいぞ?」と少しだけむくれるように唇を尖らせた。「顔がいいって言うの、お前くらいだろ」俺が呆れたように言葉を返せば「そう思ってるの、お前だけだし。一体お前の事を何人の女子が狙ってると思ってんだ」と少しだけ乱暴な手付きで彼は手の内にあるグラスの中身を一気に呷る。ミルクベースの弱いものだから問題はないだろうけれど、こいつはそこまで酒に強くなかった筈だ。大学で最初に催された飲み会で、俺と同じペースで酒を呑んだ碓氷が潰れたのは未だにしっかりと覚えている。介抱したのが俺だったから。 「へぇ、じゃぁそれを射止めた碓氷は凄いな」  揶揄う口調で笑った俺へ、碓氷はじとりとした視線を向ける。「何か、碓氷は余裕って感じだよな。俺はもういっぱいいっぱいなのに」自嘲げな色を滲ませて口にされたその言葉に、俺は思わず眉を下げる。こう言う時に、何と言葉を返せばいいのか分からなかったから。あの男ならスカした言葉の一つや二つ口にするだろうし、俺の母親であれば胡散臭く笑って芝居掛かった言葉の一つでも告げるだろう。けれど、俺はあの男でも母でもない。「俺だって、お前にそう言われたら困るくらいには、余裕ないよ」ようやく選び出して口にした言葉はそんな情けないものだった。 「ごめん」 「いや、謝る事じゃないけど」  ハッとした顔で一言詫びを入れてくる碓氷に、俺は首を横に振る。彼はたまにそういう事をするのだ。全く同じ顔になるわけではないけれど、一瞬だけ俺に対して何かを間違ってしまったのかという表情を見せる事がある。多分、自覚はないんだろう。この関係が変わる前から、碓氷のそういう顔は何度か見ていた。そして、この関係が始まる時も、彼はそういう顔を一瞬だけ見せた。浮気でもするつもりなのかと俺が眉を寄せた時、彼は間違ったのだろうかというあの表情を見せたのだ。俺は、彼にそんな顔をさせたい訳ではないのに。 「うん、でも、勝手に僻んだ」  少しだけ覇気のない、苦し紛れの笑みを浮かべる碓氷の顔を見ていたくなんてなかった俺は、話題を変える為に「そういやさ」と多少わざとらしさを孕んだ声で言葉を投げる。流石に真正面から訊くのは気恥ずかしくて、新しいタバコを咥えて安いライターの火で先端を燃やす。巻紙が燃える小さな音が、やけに響いたように思えた。 「碓氷って、俺に突っ込みたい訳? 突っ込まれたい訳?」  恋人という関係になるのであれば、そう言う事になるだろうと、その手のサイトを漁って――思わずすぐに閉じてしまった俺の疑問はそこだった。いざそうなってから狼狽えなくて良かったと、思わず凝視してしまった海外のアダルトビデオを思い出して心の中でだけ小さなため息を漏らす。突っ込むのは碓氷が痛そうだし、突っ込まれるのはきっと俺が痛い。俺が投げ飛ばした突然の疑問に、彼は「調べたんだ……?」と唖然としたように言葉を漏らす。「それはまぁ、一応」なんて煙を吐き出しながらも返した俺へ、彼は逡巡するように視線を巡らせてから小さく消え入りそうな声で、一言だけ呟いた。 「突っ込みたい」  恐らくアルコールのせいだけではないのだろう碓氷の朱く染まった頰と耳元を見つめながら「わかった」とだけ言葉を返せば、沈黙がテーブルを支配する。周りの喧騒がやけに遠くに聴こえ、テーブルを挟んだ向かいの視線を下げて顔を赤くしながら小さくなる男の緊張がこちらへも伝わってくるようだった。 「ごめん、俺」  またあの顔だった。「俺が聞いたんだから、気にするな。そん位で引く位なら、そもそもお前にこんな事聞かねぇし、知らない振りしてヤらない方向に持ってくくらいするわ」思わず荒くなった口調で俺が口にしたのは身も蓋もない言葉で。「それってつまり」ポツリとそんな事を呟いた碓氷は、その後の言葉を飲み込むようにブンブンと頭を勢いよく振って、店員を呼ぶように大きく手を伸ばす。まるで小学生が教師の質問に答える時のそれみたいに、ピンと指先まで綺麗に伸ばされた手に俺は思わず吹き出してしまうのだ。 「おねーさん! カルアミルクもう一杯ください!」 「あ、俺はハイボールで」  酒に弱いくせにグラスに半分以上残っていた酒を呷った上に頭を振っていたのだから、これは酔ったな。なんて碓氷の様子を見ながらぼんやりと思う。けれど注文をしながらニコニコと笑う碓氷を見て、もう今夜はあの顔は見たくないなと考えていた。 「やばい、めちゃくちゃ酔った」 「だろうな」  学校での会話と代わり映えのない他愛もない会話をしながらも、突然碓氷がそんな事を口にしたのは、五杯目のグラスが空になる頃だった。恐らくアルコールの力もあるのだろうけれど、先程までとは打って変わって上機嫌になった碓氷はいつもよりもハイペースでグラスを重ねていて、そんな彼に俺は一応「潰れんぞ」とだけ忠告はした。俺はハイボールから焼酎のロックへと移行して、三杯目の芋ロックを舐めるように呑んでいた。 「酔っちゃったよー舞島ぁー」  へへへ、と何が可笑しいのか笑い続ける碓氷に「これ以上店に迷惑かける前に帰るぞ」と言葉を投げながら会計を済ませ、座ったままでカラカラと笑う彼を腕の力だけで立ち上がらせる。身長差は殆ど無いが、俺の方が数センチ高かった。二年と少しの間、俺はこいつとの身長差を考えたことなんてなかったな、なんてふと思う。 「碓氷、今夜は泊まらせろ」  このまま一人で帰らせる訳にもいかないくらいに酔いつぶれた彼の支えになりながら、俺たちは地下鉄に乗る為エレベーターで地下へと向かう。「いいよぉ」歌うような節を付けてそんな言葉を口にする彼を引きずるように地下鉄に乗り、空いてた席に碓氷を座らせた俺は正面に立ちながら彼をじっと見つめてみる。目を開けている事も難しくなってきたのか、赤らんだ顔で瞼を下ろして寝入りはじめる彼の姿はどこかあどけなくて。手が早いという噂はどこから来たんだと小さく笑う。付き合っていた相手が高校時代の真面目な女子生徒と碓氷だけという俺なんかより、ずっと多くの相手と付き合ってきたのだろうこの男は、一体俺のどこが好きなんだか。欠陥だらけな人間の――そこまで考えて、ハタと気付く。「顔か」事あるごとに俺に対して顔がいいだのイケメンだのと言い続けていた碓氷の事を思い出して、それであれば俺だって納得出来るのだ。同じことを言って付き合おうと言い寄ってきた女を何人も断ってきたから。外見に対しての懸想であれば、内面を好きになったと言われるよりもずっといい。俺の内面なんか、好きになられる価値などないのだから。 「碓氷、次の駅で降りるぞ」  本気で寝そうになる碓氷の肩を揺らし起こした俺は、もう一度彼の腕を掴み上げてアルコールが足に来ているらしい彼の支えになってやる。地下鉄を降りて、エレベーターで地上に出ればあと少しで彼の家だ。 「おい、鍵出せ」 「ジャンバーのポケットー」  自力で鍵も出せないのかと毒付きながら、上着のポケットを漁る。キーホルダーの重みで一番底にあったそれを取り出して、俺は玄関の鍵を開ける。「ホラ、ちゃんと歩けって」碓氷を引きずりながら、何度か遊びに来た事がある彼の家へと足を踏み入れれば、足を縺れさせた碓氷に引きずられてバランスを崩す。よろけた拍子に壁に背を打ち付けた俺は、碓氷と壁に挟まれる。すぐそばである筈のドアが閉まる金属音がやけに遠く聴こえたのは、きっと、真っ直ぐな彼の視線に射抜かれていたからだ。電気も付ける事が出来ていなかった玄関の中でも、窓から射し込む街灯の光で見る事が出来たアルコールで潤んだ瞳で俺を見つめる彼の手のひらは、ゆっくりと俺の頰を撫でる。外を歩いた筈なのにやけに熱く感じたその手の感触を横目に、俺は碓氷の視線に吸い込まれるように暗がりの中で彼の瞳を見つめていた。 「ねぇ、キスしてもいい?」 「――いいよ」  うっそりと笑みを浮かべ、そんな言葉を俺へと告げた彼に、俺は小さく笑ってそれを肯定する。その深く長い接吻は、甘いアルコールの味がした。

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