15 / 32

まだ、気づかぬままで(3)

「あ、そういえば」  深く静かな夜が去れば、朝が俺たちの元にもやってくる。軽く焼いた食パンの上にバターを乗せていた俺に、碓氷は思い出したように声を上げた。「来月の半ば位から一ヶ月くらい東京行くんだ」コーヒーが入った色違いのクリスマス柄のマグカップを両手に持った彼はそう言葉を繋げる。片方を俺の元に置いてから俺の隣に腰を下ろした彼の言葉に俺は頷く。「就活? 早いな」一般的な就活の幕開けは初夏の頃だった筈だと思いながら俺が言葉を返せば「出版社って早いんだよなぁ、全体的に似たような日程だからとりあえず飛行機とマンスリーマンション押さえておいた」なんて彼は笑う。書類選考で落ちるなんて考えていないかのように。「頑張れよ」サクリ、とトーストに歯を立てながらモゴモゴと言葉を返せば「おう」と笑みを浮かべた彼は「それでさ、一ヶ月くらいウチ開けるし渡しとこうかなって」と俺の前に剥き出しの金属片を置いて渡す。それは恐らくこの家の鍵で。「昨日みたいに待ってて貰うのもなぁって、前から思ってたんだけどいい機会かなって思ってさ」言い訳みたいに言葉を重ねる碓氷に「ありがと」とだけ口にして、その金属片を俺は受け取る。キーリングに通したその鍵は、違和感なんてなく元々俺が持っていたいくつかの鍵の中に紛れ込んでいた。「実家の合鍵を渡す訳にはいかないけど」冗談めかした言葉を重ねた俺に「俺、舞島の家なんて知らないんだけど」と碓氷は笑った。「知ったってそんないい事ないぞ。同じ沿線の住宅街にある一軒家で、小言が多い双子の片割れとちょっと天然入った父親とどっかズレてる母親がいるだけでさ」学校からも遠いし。なんて言葉を重ねた俺に「ウチから見たら大体の家が遠いだろ」と笑った碓氷は「いつでも居ていいから」と快活な笑みを柔らかなものに変えながら俺へと告げる。俺がこの家にいる理由なんて、碓氷が居るからという一点だ。彼の言葉の意味が分からずに首を傾げれば、碓氷はその理由を解くように言葉を重ねるのだ。「家、帰りたくない時とかあったら、俺が居なくてもウチ使っていいよ」そんな彼の言葉に、俺はぎくりとする。碓氷は一体何処まで俺の事情に気付いているのだろうか――気付いている筈がない、何も口にはしていないのだから。「家族と大喧嘩した時にでも軒先貸して貰うかな」冗談めかして笑みを浮かべて、肩を竦める俺に「舞島ならいつでも大歓迎」と碓氷は力の抜けた笑みを見せた。 「――っだいま、」  碓氷の家からバイトへと向かい、バイトを終えて数日ぶりの自宅へと戻れば居間にあるダイニングテーブルでは母親がノートパソコンを広げ、ソファでは父親が音楽番組を流しながら文庫本を広げていた。「久々だな」俺の声にチラリと視線を上げた母はそう口にして、その声に気づいた父は「おかえりー」とひらりと俺に向けて片手を振る。「飯は冷蔵庫の中から適当にやって」という母の言葉に「食ってきた」と返せば「そうか」と短い声が戻ってくる。「そういや、お前ウサギの事着拒してる?」あ、という声と共に母の言葉に俺は自然としかめっ面をしてたらしい「してるんだな」納得したような母の声に、何があったのかと父へと視線を向ければ「最近リツにめちゃくちゃウサギから連絡来てるんだよ、直人は東京で就活しないのー? って」という言葉が返ってきた。そんな答えに俺は思わず大きな溜息を漏らす。「俺が何処で就職しようが、あの男には関係ないだろ」苦々しげに吐き出した俺の言葉に「ご尤も」と相槌を打つ母は「お前がちゃんと考えてるならいいんだ、早く誰かに刺されて死ねって言っといたし」と青緑色の紙箱からタバコを一本取り出して、慣れた動作で火を付ける。周りの同年代より若く見える母は、中性的な容貌で男に間違われる事も多い。年相応に老けている父と並んで歩いている時に、似ていない兄弟に間違われたと管を巻いていたのには笑ってしまったけれど。そんな母が人を嫌うというのはあまり見た事がない。それは一見博愛主義のように見えるけれど、基本的に彼女は他者に興味を持っていないのだ。そんな母が表面上だけでも激しく嫌っているのが、あの男――この家で滅多に本名を正しく呼ばれないその男の名は宇崎(ウサキ)伊織(イオリ)、俺にとっては血縁上の父に当たる男だ。両親とは大学時代からの付き合いだといい、母と未だに肉体関係を持つ男。世間一般的には不倫と言われるのだろう母とその男の関係は、俺とは血が繋がらないけれどそれを気付かせる事もなく俺を育ててくれた父によって看過されていた。――それが、俺の事情。異父過妊娠というらしいその事象を経て産まれた二卵性双生児である妹と俺は父親が違う。産まれてすぐに両親はそれを知り、その事実をもう一人居る学生時代からの友人――俺と妹が未だに(リン)ちゃんと呼び親しんでいるニューハーフバーのママをしている浅野(アサノ)麟太郎(リンタロウ)にだけ伝えた後は誰にも言わずに俺を育ててくれた。それを俺が知ったのは、中学で受けた理科の授業での事だった。それは遺伝の授業で、両親の血液型から産まれる子供の血液型は決まっているという話を聞いて覚えた違和感と恐怖を、俺は今でも覚えている。俺の血液型は、舞島の両親から産まれた時に出てくるものではなかったのだ。そして、その頃丁度あの男が俺の前に現れた。 「君は、俺の息子らしいね?」  嫌味な程整った相貌で俺の前に立った男は、笑みを浮かべながらそう言って笑った。宇崎伊織と名乗った男は、俺を引き連れて家へと踏み入り「酷いじゃない、俺の息子を産んだのに言ってくれないなんて」と初めて見るような嫌悪の表情を浮かべる母と、困ったように笑みを浮かべる父の前で笑みを浮かべ続ける。はっきりと拒絶されて尚、なぜこの男は笑ってられるのだろう。そんな疑問が浮かんだけれど、その渦中に居た中学生だった俺はそれどころでは無かった。口は悪くとも何だかんだでお人好しな所がある母と、優しく正しい事を教えてくれる父の事が俺は好きだったし、この男がこの場にいる事でその二人から引き離されるのではないかという恐怖を覚えていたのだ。結局それは俺の疑心暗鬼で終わり、その場で母が激しい剣幕で吠え、父が――あの男ではない、俺を育ててくれた父が毅然と「直人はお前の息子じゃない」と告げた事で終わりを迎えた。その直後、その一連の騒動を見ていた妹が「信じられない!」と泣き喚いた末に家を飛び出していった事で宇崎伊織の一件が霞んでしまった事もあるのだけれど。そして俺が女性を――恋愛を避けるようになったのは、その頃からだった。当時の俺には、それが異様な光景に見えた。二人の男が母に利己的な感情を向け、それを受ける母はそのどちらにも興味を持たないように何でもないような顔をしてそこに立っていた。その場の絶対的君主は母であり、二人の男はそれを良しとするように――けれど母の感情など考えず自分本位な恋だの愛だのいうものを彼女へとぶつけていたように思えたのだ。それはまるで三匹の怪物がそこにいるようで。利己的な二匹のバケモノと、それに嬲られて尚毅然とそこに立っている異形。俺は絶対に、そうなりたくはなくて――そして、あの男に連なるものを作りたくも無かったのだ。だからこそ、俺は女性を避けて生きてきたし、恋なんてしないと決めていた。 「――ウサギみたいには、なるなよ」  ポツリと呟いた母の言葉に、俺の意識は現実へと戻る。俺の焦点が母に合わせられた頃に、彼女は「私も褒められるような事はして来なかったし、お前に正しい道を教えてやる事も出来ないけど――アイツみたいにはなるな。他人を玩具にしか思わないような男にはなってくれるな」と言葉を重ねる。彼女の掛けるレンズ越しに俺へと注がれる視線は鋭く真剣で。「――もし、あの男みたいになったら?」少しの恐怖を感じながらもようやく告げた俺の言葉に、少し考えてから口を開く。「とりあえず一発殴って、家に連れて帰って説教かな。「流石に人の道を外れすぎだ!」って」口元だけで笑みを浮かべた母は、その視線をパソコンの画面へと戻していく。「直人がアイツを嫌いなのは知ってるけど、アイツを上手く転がせば就活楽に進むかもよ? アイツを転がせるのはリツと直人くらいだし、見た目通りのハイスペッククソ野郎だからねウサギは」どこか楽しそうな調子でそう口にした父の言葉は、この場所には居ない男への刺が見え隠れしていた。「父さん、辛辣だな」思わず口から零れた俺の言葉に「そう?」と首を傾げた父は、いつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべながらも言葉を重ねる。「使えるもんは使っとかないと損じゃない?」そんな言葉に、俺は長年疑問に思っていた事を口にする。 「父さんは、俺があの男の方に行った方が良かったりした?」  ポツリと零れてしまったその疑問に、父は柔らかな笑みを浮かべたままで首を横に振る。「――血が繋がってなくても、直人は俺の息子だよ」ゆっくりと、言い聞かせるように紡がれた彼の言葉に俺は心の何処かで安堵する。あの事件が起こった後から、ずっと俺は居場所を探していた。家族や両親の友人たちは変わらない態度で接してくれていたけれど、父の実家に行く時だけは何かと理由を付けて断ってしまったりもしていて。家の中で、どうにも居場所がないように思っていた。だから俺はきっと、碓氷の元に逃げたのだ。何も知らない碓氷に、俺は救われていたのだろう。そして、利用という言葉だけでは説明できない何かを感じ始めていた。付けてはいけない名前をつけてしまいそうになって、その感情から目を背けてしまう。ぐるぐると巡る思考の渦を消し去る為に、俺はポケットから酷くゆっくりとした動作で携帯を取り出した。どこか楽しそうなうな光を浮かべながら俺を見つめる母と、不思議そうに俺を見つめる父の視線に晒されながら、俺は着信拒否の為だけにアドレス帳に残したままの四文字を選び出し、着信拒否を解除してからその番号へと発信した。仕事をしていたって構うものか。『直人くん? りっつーに連絡しても全然近況教えてくれなくてさぁ、直人くんウチの会社来る気ない? 選考始まってるから資料送ろうか?』数コール目で出た男は、俺の返事も聞かずにスピーカー越しでもわかる愉しそうな声で言葉を繋げていく。「誰がお前と仕事するか。俺から連絡するまで連絡してくんなバカウサギ!」それだけを電話口で叫んだ俺は通話終了のボタンを押す。母はヒュゥ、と囃し立てるような口笛を吹き、父は腹を抱えて笑っていた。碓氷と一緒に居た事で忘れかけていたけれど、元々俺は性格が悪いし、両親も大概だ。モヤモヤとした気持ちを、血縁上の父へ八つ当たりする事で少しだけ消した俺は「東京と札幌で就活することにした。でも、アイツと同じ業界は絶対に受けないから」と宣言し、居間を後にしたのだ。

ともだちにシェアしよう!