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その感情の名は(1)

 市街地から少し足を伸ばせば鮮やかな紅と黄色の色彩を目に出来るようになる頃になっても、俺はまだ一つの命題について頭を悩ませていた。それは、この先の人生を決める大きな――けれど、誰しもが通るのであろう分かれ道で。 東京に出て行くか、この地に残るか。ただそれだけの選択は、きっと俺と碓氷にとって大きな選択になる事だけは分かっていた。彼は自分の夢を実現させる為に、既に東京へと旅立つ事を決めていて。それについて行くか、それともこの地で時折顔を合わせる程度の関係に落ち着かせるかを決めるのは、俺の選択であった。碓氷はきっと、俺も東京に行く事を望んでいる。それは彼の零す言葉の端々からも感じていた。彼と幾度となく身体を重ねても、自分の感情に言葉を与える事が出来なかった俺は、彼の願いを叶える事が果たして本当に正解なのだろうかと考えてしまうのだ。――俺達の関係には、未来がないのだ。同性同士で愛し合う人々を、俺はちゃんと知っている。それでも尚、俺は彼との未来がどのようなものかを描くことが出来なかった。 「――どう思う? ハナさん」  自分の思考の断片を溢すように告げた相手は、母の弟の恋人で。俺に意見を求められた彼は、少し考えるように視線を彼方へと向けてから俺へと戻す。「難しいね、こういう事は直人くんがどうしたいかだから」困ったように笑みを浮かべながらそう口にした彼は、「でも」と言葉を繋ぐ。「葎花さんも、多分舞島くんも、それを正直に言っても反対はしないと思うよ」母との付き合いが俺よりもずっと長い彼は柔らかい語調でその言葉を口にして。どこか不安に駆られる俺を安心させるように、言葉を選びながら再び口を開く。「直人くんの人生を否定するような人たちじゃない。勿論、俺や格臣くんも」それだけは確かな事であると言うように、彼はまっすぐに俺を見つめながら言葉を紡ぐ。その言葉に俺は曖昧に笑って頷くのを見た彼は「まぁ、葎花さんに相談してみなよ」なんて気楽な言葉で会話を終わらせた。昼下がりのダイニングで、俺と彼は沈黙の中でコーヒーを啜る。何かの答えが見つかるのではないかと駆け込んだこの場所でも、答えが見つからなかった事を感じた俺は、ひとつの疑問を彼へと投げた。 「――何で、叔父さんだったの?」  沈黙を割った俺の言葉に、彼は柔らかく微笑んで「そうだな」と口を開く。「格臣くんが、俺を求めてくれて――俺がそれに縋ったのが始まりかな」出逢いの頃を思い出しているのだろう彼は、俺よりも遠い何処かへ視線を向けて言葉を紡ぐ。「格臣くんには秘密にしてね、俺は寂しさを埋める為に彼を利用したんだ」その言葉は、どこか俺と彼の関係に似ていて。「けれど、気付いたら彼無しでこの先を考えるなんて事は出来なくなっていてね」柔らかく微笑みながら言葉を紡ぐ彼に、俺は耳を塞ぎたい衝動に駆られてしまう。けれど、その両手はカップを握りしめたまま離せなくて。「――年甲斐もなく、恋に落ちたんだ」気恥ずかしそうに薄っすらと頬を染めて告げた言葉は、甘く耳に残った。 「――教えてくれて、ありがとう」  俺の喉はようやくそれだけを絞り出し、握りしめたマグカップをゆっくりとテーブルに戻した俺は逃げるように椅子から腰を上げる。「家、帰らなきゃ」何に対しての言い訳かも分からない言い訳のような言葉を咄嗟に口にした俺に、彼は小さく首を傾げる。「具合悪くなった? 顔色悪いけど、大丈夫?」血の気がなくなっていくような感覚を感じながら立ち上がった俺へ、彼は眉を下げて問う。「大丈夫」それだけを口にして、俺は逃げるようにその場を立ち去った。グラグラする思考の中で、俺は必死に家へと駆けて行ったのだ。 「暴漢にでも襲われたか?」  何かから逃げるように家に駆け込んだ俺へ、大きな物音に気付いたのだろう母は玄関先に顔を出しながら不思議そうに首を傾げる。「顔色悪いぞ」重ねられた言葉に、俺は途切れ途切れな言葉を口に出す。「暴漢ではないし、あの男でもない、なんでもない」三つの言葉は母へと届き、彼女は「そうか」頷いてから「でも、何でもないって顔でもないな」と眉を寄せながらも口元に笑みを浮かべるという奇妙な表情で俺へと言葉を投げかける。玄関で立ち竦んだままの俺に、彼女は困惑の色を滲ませた声で言葉を重ねて行った。 「まぁ何だ、話したいと思えばリビングで話せばいいし――話したくないなら部屋で紙に状況でも書いてみたらどうだ?」  何はともあれ、まず靴を脱いだ方がいいな。なんてとぼけた言葉を口にした母はさっさとリビングへと戻っていく。昔から俺や妹――彼女にとっては夫である筈の父に対しても必要以上に距離を詰めない母は冷たい人間に見える事もあるけれど、俺たちが感情や意思を言葉にすればそれを真摯に受け止める人間だと言う事は二十年と少しの人生の中で知っている。玄関でのろのろと靴を脱ぎながら、俺はこの小さな選択について考える。きっと母は俺の話を笑い飛ばす事も、怒る事もないだろう。それだけは分かっていた。けれども俺は、母が提案したそのどちらも選ばずにリビングの入り口で立ち竦む。相変わらずダイニングテーブルに広げたパソコンで仕事をこなしていく母へ、俺は一言だけ問いかけた。 「――恋って、何なんだろうな」  ゆるりと視線を俺へと向けた彼女は「フィガロの結婚? それともスタンダード?」と口にしてから小さく笑みを溢して「そうじゃないな」と一人首を横に振る。そして、母は俺へとまっすぐな視線を向けて断定するように言葉を紡ぐ。「肉欲の上位互換、宗教みたいな集団幻想――相手を自分のものにしたいという利己的な欲に、粉砂糖を振って誤魔化した耳障りのいい言葉。恋なんて所詮エゴイズムの塊だ」およそ結婚をして二十年以上を過ごしている女性の発言とは思えない辛辣な言葉に、俺は息を呑む。「武将ならもっと気の利いた事が言えるんだろうけれど、私はそこら辺欠陥だらけだからなぁ」自分の夫を学生時代からのあだ名らしい武将という名で呼び続ける彼女は肩を竦めて困ったように笑みを浮かべる。「お前は私に似ちゃったから、これだけは言っておくけど――合わせる事がしんどいなら、やめとけ」そう口にした母は、俺の言葉を待つように薄い唇を静かに閉じる。「――、ありがと」それだけをやっと口から出すことに成功した俺は、リビングの入り口で踵を返す。何も続ける事が出来なくて、部屋に逃げようとする俺の背に、母は独り言のような言葉を溢した。 「悪い部分は、全部私に似たと思え」  自嘲げに吐き出された母の言葉に、返す言葉を見つけられなかった俺は、今度こそ部屋へと逃げ帰ったのだ。階段を足早に上り部屋のドアを閉めた俺は、今度こそ立っていられる事も出来ずに閉められたドアを背に崩れ落ちる。激しく動いた訳でもないのに、呼吸は荒くなっていた。――合わせる事が、しんどいなんて。碓氷に対してそんな事を思ったことなど、全くと言っていいほどなかったのだ。今までの俺の抱いていた感情と、叔父の恋人が口にした言葉、そして母の言葉が頭の中でごちゃ混ぜになっていく。ヒュウ、と鳴る喉を自身の両手で押さえながら、コントロールを失った呼吸を止める術も見つける事は出来ず、指先は痺れていった。息苦しさの中で溢れた涙をそのままに、俺は粗い呼吸をどうする事も出来ずに嗚咽を漏らしていた。――その感情に、名前がついてしまったから。 「――恋、だったのか」  涙が止まる頃には、俺の呼吸も落ち着いたものになっていた。碓氷に対して持ってしまったその感情に、目を背ける事が出来なくなった俺は、震える手で携帯を取り出す。メモリーから呼び出した電話番号で発信をすれば、丁寧な男の声が耳へと届く。名を名乗り、担当者への取次を依頼すれば、少しの保留音の後に違う男の声が携帯の受話スピーカーから流れてきた。出来る限りの丁寧な言葉で内定の辞退を告げ、それを詫びた俺に、彼はそれを了承し通話が切れる。衝動的に入れた内定辞退の連絡を終えた俺は、どちらにせよ書くことは決まっていた為に元々用意していた便箋を引き出しから取り出して相手の会社へと送る詫び状を認める。出来るだけ丁寧な筆跡でそれを書き上げた俺は、その詫び状を入れた封筒を持ち駆け上がった階段をゆっくりと降りていく。「――大丈夫か?」リビングから掛けられたのは心配の色が滲んだ母の言葉で。きっと隠し立てする事も出来ずに上げた嗚咽のせいだろう。それでもそれ以上の言葉で問う事はしない彼女は、俺の「大丈夫」という言葉に頷くのだ。「ちょっとコンビニ行ってくる、何か居るものある?」きっと腫れてしまっている目を擦りながら俺が問えば「何か甘いもの、四人分。レシート貰ってきてな」という言葉を投げられる。きっとそれは人付き合いが苦手な母の、精一杯の気遣いで。俺が帰ってくる頃には温かい紅茶でも淹れられてるのだろう。俺はそれに頷いて、近所のコンビニにあるポストへと足を向けた。

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