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ある筈もない、幸せな(1)
夢を見ていた。ある筈もない幸せな、夢だったような気がする。俺は、俺の中で燻る恋心を素直に認める事ができて、彼が暮らす地で、彼の隣で生きていく夢。――俺が、自ら手離した生活を、俺は夢に見ていたのだ。
「おはよう」
ゆっくりと目蓋を開ければ、視界に飛び込んでくるのはぎこちなく笑みを浮かべる碓氷の姿で。そのぎこちない笑みに、昨夜の情事がどのようなものだったのかを思い出す。それは、別れのためのセックスだった。俺から別れを告げたのに、手酷く犯されて殺されかけた事すら嬉しくて。そんな歪みきった自分と、このクソみたいな現実が悲しくて――可笑しくて。夢から醒めた俺は、やっぱり燻り続けるこの恋を罪悪だとしか思えなく、碓氷も俺の言葉に否と言うことはなかった。いっそこの現実が夢で、夢に見ていた生活が現実であればどんなに良かっただろう。悪い夢から醒めた俺が、隣で愛おしげに笑みを浮かべてくれる碓氷に、怖い夢を見たなんて口にして――そんな事ありえないよ。とその不安を拭い去ってくれたなら、どんなに幸せだっただろう。けれど、俺はどこまでいっても俺のままで。彼を手離さずにしがみついたって、夢に見た幸せなんて手にする事は出来ないのだろう。――きっと、俺を選ばなかった事で無数にある筈だった彼の選択肢を全て潰した負い目と罪悪感に、耐える事など出来やしない。「……はよ」小さく返した言葉は、掠れきっていた。碓氷の指は、俺の首筋をそろりと撫でる。「昨日は、ごめん……酷くした」首筋に残されているのだろう彼の手の痕を、彼はゆっくりとなぞり瞳を伏せた。そんな彼に返す言葉を、俺は見つける事が出来なくて。言葉を返せずにベッドから起き上がる。すっかり拭き清められた俺の身体には、幾つもの紅い痕が残っていて。もう、どこにもないのだろう碓氷の精を探して何も宿りやしない腹を触った。「――いいんだ」ようやく絞り出した言葉は、なんの変哲もない赦しの言葉で。ベッドから抜け出そうと動けば、俺の左手首が掴まれる。「……飛行機、午後でしょう。せめて、チェックアウトまで――抱きしめさせて」言葉を選びながら、躊躇いがちにそう口にする碓氷の声は震えていて。俺は起こした身体を彼の隣に戻して、彼の腕の中へと閉じ込められる。「――いいよ」幾度も口にしたその言葉を彼へ告げるのは、きっとこれが最後なのだろう。俺の声も震えていた。俺も――きっと彼も、別れたくなどない癖に。それでも俺たちは――俺は、彼と同じ道を歩いていく未来を思い描く事が出来なかったのだ。
「……それじゃ、卒業式で」
彼の言葉に、是とも否とも付かない唸りで返した俺に、少し悲しげに微笑んだ彼は、成田空港のロビーで俺に背を向けた。ストックホルムで出発ギリギリまで互いの体温を感じるようにきつく抱き合った俺たちは、夜を超えて日本へと戻ってきた。碓氷の計画では俺は彼の新居に遊びに行って、引越し準備を手伝う約束だったけれど――結局俺は、それが許される関係ではなくなってしまったのだ。きっと最後になる彼の後ろ姿を見つめていれば、鼻の奥がツンとする。視界が水の膜に揺れるのを感じながら、俺はそれでも――彼をどうしようもなく愛してしまっていた。一度もこちらを振り向かず、新しい未来へと進んでいった彼の背中が小さくなりやがて人混みに消える。そうして俺は何かから逃げるように、国際線ターミナルにあったカフェバーに駆け込んで。カウンターになった窓に面した席に通された俺は、昼間だというのに強い酒を頼んでいた。太陽の光に照らされた航空機を眺めながら、俺は縋るように携帯のメモリーから一つの番号を呼び出す。こんな時に縋れる相手が、着信拒否までした相手だなんて。あまりに滑稽な自分に乾いた笑いを漏らせば、数コールでその男は「直人くん?」と愉しげな声で俺を呼ぶ。
「――たすけて」
細い俺の声に、彼は俺の異変に気付いたのだろう。「どこにいるの?」と訝しげに問う男へ自分の居場所を告げた俺に、彼は「そこで待ってて」とだけ告げて、電話を切った。耳に届く電子音が、やけに遠く聞こえた。
「直人くん!」
数ヶ月ぶりに聞いた、スピーカー越しではない男の声は珍しく焦っていて。滅多に見せないのだろう男の狼狽に、俺は可笑しくなって掠れ切った笑い声を漏らす。人をオモチャかゲームの駒としか思っていない筈の男が、俺の腕を掴む。「酷い顔してるよ」彼の言葉に、俺は首を傾げて――そこでようやく頰に伝う涙を自覚する。酒に酔って泣いてたのだろう。男を待つ間に、吸っていたのだろう吸殻が灰皿の上に小さな山を作っていて。泣きながら酒を飲んでアホみたいにタバコを吸い続けてたのか、と他人事のように俺の今までの状況を理解した。「とりあえず、車乗って――ウチに行こう」男の言葉に頷いた後の、俺の記憶は酷く曖昧だった。どうやってたどり着いたかも分からない男の家のベッドで子供みたいに泣いて、泣き疲れたら眠り――目覚めたらまた涙が溢れて。それが何日続いたのかも分からない。俺が放り込まれた部屋は、就活の時に訪れた時と同じようにベッドしかないような部屋で、カレンダーすらなかったから。俺の手首に巻かれた時計も、日付までは教えてはくれなかった。
「――落ち着いた?」
そんな生活を送り続けて久々にリビングへと顔を出した俺に、彼は苦笑混じりで言葉を投げる。「一応、りっつーには連絡したけど。好きなだけいていいからね」――利用する分には、害のない男。以前俺が口にしたその言葉を思い出す。「俺さ、男に抱かれてたんだ」目の前の男が何者であるかは知っていた。泣き腫らした顔で笑みを浮かべた俺は、この男の目にどう映ったのだろう。「アンタなら、興味あるんじゃないの? 自分の息子が、どうやって男を咥えこむのか」男の瞳が俺を捕らえる。碓氷を誘ったのと同じ笑みを、意図的に貼り付けて。俺は意識して目の前の男が好きそうな言葉を口にしていく。
「試してみろよ、母さんにそうしたように」
口端だけで笑みを浮かべた俺に、彼はソファから腰を上げて俺の手首を掴む。「――いいんだね」ギラギラと獲物を捕らえるような瞳を俺に向け、最後通牒のように口にした彼へ、俺はゆっくりと一息ついて「いいよ」と答えた。碓氷に告げたのと、同じように。
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