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イケメン

 彼女はエマと言った。僕は名乗る代わりに首を傾げて笑った。そしたらそのはずみで涙が溢れた。それを最後に涙は一旦落ち着いた。  エマが居るに相応しい和室に通される。座布団を勧められ、荷物を隣に置いて正座した。座布団はシフォンのケーキみたいにふわふわだった。障子の向こうの軒端から、小径で見た真っ赤な山茶花が最期に咲き乱れているのが見えた。こちらから見ても山茶花はやっぱり綺麗だった。  見とれているうちにエマがゆのみに緑茶を入れて持ってきてくれた。僕はそれを勧められるがままに飲む。毒や薬が入っていても構わなかった。味とかよく分からないけど熱くて骨身に沁みたし、美味しかった。 「落ち着いた?」  エマは余裕綽々で優雅にお茶を飲みながら言う。  僕はちょっと照れくさくなったけど頷いた。身体中がしもやけのように熱くなる。 「あなたをなんて呼べばいい?」  この聞き方は美しい。不躾に「名前は?」と聞くのではないところがいい。僕は本当の名前を言ってもいいし、偽りの名前を言ってもいい。そういう選択肢を与えてくれている。  しかし僕には声がない。  喉に手を当てて、困ったように笑って首を傾げた。 「声が出ないの?」  エマは少し驚いたように目を見開いた。僕は頷く。  彼女は一口、お茶を啜った。 「そんな時もあるわよね」  僕は鞄から筆記用具を取り出して文字を書いた。 『るか』 「ルカね」  彼女はなんてことない調子で笑った。笑うと浮き出る目尻の皺がやっぱり可愛い。 「どうして泣いていたの?」  歌うように訊ねられた。  どうせ知らない人だしいいや、と僕は名前の脇に文字を書く。 『失恋した』  まあ、とエマは感嘆の声を漏らす。 「相手はどんな人?」 『イケメン』 「それは質問の答えになってない」  イケメンというワードに彼女は少しも物怖じしないで笑った。  この人は良い人だと直感的に感じる。  

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