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第7話

里都の水着を脱がそうとしていた手がピタリと止まった。 この声は永瀬の声だ。 安堵に目頭が熱くなる。 なぜ生徒用の更衣室に永瀬がいるのかはわからないが、これで助かったと思った。 「望月さん?」 返事のない里都を案じるような永瀬の声色に、背後で田中が小さく舌打ちをする。 捕らえられていた両手が解放され、口から水泳キャップが引き抜かれた。 拘束を解かれた里都が床に座り込むと、田中がシャワーカーテンを勢いよく開いた。 カーテンの外にいたのはやはり永瀬だった。 永瀬は田中の姿に一瞬驚いたが、その背中越しに里都の姿を見ると途端に険しい表情になった。 「田中さん、なんで望月さんと同じシャワーブースに入ってるんですか?…彼に何かしたんですか」 その声は低く、先ほどまで明るく爽やかに指導していた永瀬のものとは全く違っている。 しかし、田中は少しも臆することなく肩を竦めるとおどけて見せた。 「やだなぁ、コーチ。俺と里都ちゃんはおはなししてただけっすよ、。ね、里都ちゃん」 田中はそう言うと、里都を振り向いた。 下卑た笑いが心底胸糞悪い。 しかし、里都は何も反論できなかった。 この男が里都にした事を言えば、きっと永瀬の体裁が悪くなる。 たとえば警察沙汰にまではならなくとも、逆恨みした田中が万が一ネット上で永瀬の勤めるスイミングスクールや彼自身の悪い口コミなんかを広めたりでもしたら、それこそ彼の未来は断たれてしまう。 腹は立つしどうにか制裁を与えてやりたいとは思ったが、今はこのまま黙っている方が賢明だと思った。 暫くシャワーブースに緊迫した空気が流れる。 里都が何も言わない事をいいことに田中はふふんと鼻を鳴らすと、永瀬の脇をすり抜けて出て行った。 「望月さん、大丈夫ですか?」 田中がいなくなると永瀬が慌てて駆け寄ってきた。 「彼に何かされました?」 声色はすっかり元に戻っていたが、覗き込んできたその顔は険しいままだ。 里都は顔をあげると精一杯笑って見せた。 まともに笑えてるかどうかはわからなかったが。 そして自分が平気である事を伝えようとした。 「だ、だ、だい、だい…だ、だ」 しかし「大丈夫です」と言おうとするのに、歯の根が合わずうまく言葉が紡げない。 そこで初めて、自分がひどく震えているのがわかった。 「こんなに震えて…やっぱり何かされたんですね」 違うと言いたいのに、それさえもできないほど情けなく震えてしまっている。 これでは何かされたと言っているようなものだ。 永瀬の手が、カタカタと揺れる里都の肩に触れてきた。 里都は弾かれたようにピクリとした。 「あ、すみません…嫌、ですよね」 永瀬が罰の悪そうな顔をして、伸ばした手を引っ込める。 しまったと思った。 少し驚いただけで決して嫌ではなかったのに。 そう思って里都は心の中で首を傾げた。 嫌じゃない? 彼だって飛鳥彦ではないのに? 「あ、えっと…着替えますよね…でます」 永瀬はそう言って慌てて立ち去ろうとする。 何だか急に不安になり、里都は思わず永瀬の羽織っていたパーカーの裾を掴んでいた。 くん、と裾が引っ張られ、それに気がついた永瀬が振り向く。 不安げな表情をする里都を見下ろすと、永瀬は柔らかく微笑んで言った。 「安心してください。外でちゃんと見張ってます。もう二度と指一本だって触らせませんから」 「わざわざ送っていただいてありがとうございました」 里都は運転席に向かってぺこりと頭を下げた。 落ち着いたから一人で帰れるといい張る里都を押し切って、永瀬は里都の住む団地の前まで車で送ってくれたのだ。 「いえ…こちらこそ本当にすみませんでした。僕があの人と同じ日程で組んでなければこんなことにはならなかったのに…」 「コーチのせいじゃありませんから」 里都はそう言うと俯き、顔に落ちてきた湿った髪を耳にかけた。 「あ、あの…」 まるで腫れ物を前にしてるかのように、永瀬が恐る恐る訊ねてきた。 「こんな時に言うのもどうかなって悩んだんですけど…レッスンってやっぱり続けられませんよね」 「え」 「いや、あの…望月さん、すごく熱心に指導受けてくださってたから、僕もやりがいあるなって思ってたんです。まだ続けるかどうかの返事も聞いてないんですけど、これからのレッスン内容とか色々勝手に考えちゃってて…でもこんな事があったからやっぱり続けるの嫌になっちゃったかなとか思ってて…」 永瀬はそう言うと、上目遣いで里都を見てきた。 里都より体格も良く男らしいくせに、こちらの顔色を伺うその姿が何だか妙に愛くるしい。 まるで捨てられた子犬のようだ。 辞める気なんて元よりなかったが、こんな顔をされて誰が辞めると言えるだろうか。 里都はフッと笑うと、永瀬の顔を真っ直ぐに見つめて言った。 「続けます。ここで諦めたらあの人に負けた事になるんで」 「ほ、本当ですか?!よかった!!」 里都がレッスンを続ける事がよっぽど嬉しかったらしい。 永瀬はパッと顔を輝かせた。 さっきまでの捨て犬のような表情はどこへやら、今度はご褒美を貰えた犬のように左右に揺れる尻尾が見える。 何だか見た目と違ってかわいい人だ。 そう思っていると、突然身体が運転席側へ引き寄せられた。 いや、正確に言うと、里都の身体を永瀬が抱きしめていたのだ。 まさかそんな事をされると思ってなかった里都は、逞しい腕と胸板に挟まれて目を見開いて驚く。 「凄く嬉しいです、望月さん。一緒に頑張りましょうね」 耳元に響く甘い声に心臓が跳ね上がる。 それはほんの一瞬の出来事で、身体は直ぐに離れていった。 きっと永瀬にとって挨拶のようなもので特に深い意味はないはずだ。 永瀬が爽やかな笑顔を残して帰っ行った後、なぜだかいつまでも治らない心臓の鼓動に里都は何度も言い聞かせた。 しかし、その日もその次の日も、身体のどこかにずっと感触が残っているような気がしてたまらなかった。 田中ではなく、永瀬の感触が。

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