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第3話 希望
譲が足を留めた建物。それは町唯一の学習塾だった。
充と譲の親子が住む町は海に面した小さな町で、漁業や農業を営む家が多い。
地元の人は大体が見知っていて、小さいが繋がりの強いコミュニティを形成している。
そして、子供の教育や進学に対してあまり熱心ではない風潮であった。
そんな町で唯一、学校以外で勉強を教えているのがこの『鈴木学習塾』だ。
中学で教師をしていたこの町出身の鈴木という男が、定年退職した後に道楽で開いた塾である。
建物は、もともと何かの商店のテナントだったようで、通りに面した壁はガラス張りになっており、生徒の気がそれないよう足元より上は『鈴木学習塾』と書かれた紙が貼られていた。
譲は取っ手の付いているガラス扉を見つけ、スライドした。
まだ授業には早いようで、教室内には生徒の姿がない。
ガラス扉のスライドする音を聞いたからだろうか、譲のいる位置の対角線上にある扉から壮年の男性が顔をのぞかせた。
「おや、見ない顔だね。何か用かい」
塾の生徒ではない譲を見て、男性は不思議そうにたずねる。
「塾の先生ですか?」
「ああそうだよ」
どうやら彼が鈴木であるようだ。
譲は鈴木のところまで歩み寄り、その顔を見上げすがる様に見つめた。
「勉強を教えて欲しいんです」
彼は譲の思いつめた表情に少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに相好を崩した。
「勉強好きな子は大歓迎だよ」
その言葉に譲は目を見開く。
「本当?」
「ああ、ちょっと待っててくれるかな」
そう言い残し、鈴木は入ってきた扉の向こうへ戻ると、一枚の紙を持って再び譲に相対した。
「これに、お父さんかお母さんのお名前と印鑑をもらっておいで」
そうして譲に渡された紙には『同意書』と書かれていた。
「・・・・・・名前が無いと勉強教えてもらえないの?」
譲は紙を見つめ呟くように尋ねた。
「そうだよ。学校が終わった後にここで勉強している事を知らないと、君がどこにいるかご両親も心配するだろう」
「・・・・・・だめなんだ」
「え?」
「父さんは僕が塾に行くの、ダメだって言ってたから」
鈴木は譲の言葉に少し驚き、そして残念そうに眉を八の字に降ろした。
「お父さん、どうして駄目だって?」
「僕にはまだ早いって、いっぱい遊べって・・・・・・」
「そうかい・・・・・・。まあ、それも悪いことでは無いからね」
もう少し大きくなったらまた来なさい。
少し寂しそうにそう言った鈴木に、譲は礼を言い塾を出た。
肩を落としながらガラス扉を閉め、振り返った譲はいつの間にか背後に立っていた人物の腹のあたりに突っ込んだ。
「わっ」
慌てて一歩後ずさりして顔を上げると、譲を見下ろす視線に射抜かれる。
「お前、なんで勉強したいんだ」
突然上から降ってきた声は、若い男のもので、少し高めなトーンだが攻撃的な不遜さを感じさせた。
声の印象そのままの鋭い眦で見下ろされ、譲は口ごもる。
「え、あ、あの・・・・・・っ」
「ちっ。おい、早く答えろ」
舌打ち交じりに急かされて、譲は反射的に言葉を紡いだ。
「T大に行きたいんだ!」
「はぁ?なんでT大」
男は胡乱げに問う。
「それが条件だからっ」
「条件?なんの」
「大好きな人が、僕の恋人になってくれる条件・・・・・・」
「ぶはっ」
譲の言葉のどこがツボに入ったのか、男はしばらくの間肩を震わせていた。
「は~、しっかしこの町にそんな条件出す女がいるなんて・・・・・・。面白いじゃん、俺が教えてやるよ。勉強」
ひとしきり笑ったあと、目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら、男は譲の肩に手を置きそう言った。
「えっ!!ホントに?!」
「ほんとほんと」
「やった!・・・・・・けど、お兄さんは・・・・・・」
誰。と続けようとした譲の言葉をさえぎる様に、男が言葉を被せる。
「俺は鈴木 英一 。さっきお前が話してた爺さんの息子。そして」
男はニッと口端を上げた。
「元、T大生だ」
「・・・・・・!」
突如として現れた希望に、譲は喜びのあまり声を出すことも出来なかった。
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