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第36話(樹目線)

麻酔が切れるまで数時間、ただ静かに待っていた。だが…… 麻酔が切れると雅は痛がって涙を流しながらお腹を押さえていた。 「アーッ、アーッ、アーッ」 ――『痛い』という言葉すら発することが出来ないほど、壊れているのか幼児退行してるのか……?精神的ダメージはかなりのものだった 見ていても可哀想な気分になった。それは大山も変わらない様子で、オレの隣で顔を(しか)めている。大山はβで女性だ。堕胎について知識があっても実物を見るのは初めてだろう。 ――そういうオレも初めてだけど…… きっと、お腹の命が消えたことも、本能でわかっているのだろう。理性のある雅がそれを悲しむのかはさておき、本能のままの雅は自分の子供を奪われた母親になっている。 痛み止めの注射を打たれ、痛みが収まり、落ち着いてきた頃に、彼の母親に呼ばれた。 ベットサイドに立っても、雅が暴れることはなかった。椅子に座り雅の手を握ってみる。 それでも拒否反応は示さない。 「……なぁ、雅。オレ、ちゃんと雅と話したい。オレの本気を伝えたい。あの時も最大限に話したから繰り返しになっちゃうかもしれない。でも、もっとちゃんと話したら、何かが変わってくるんじゃないかな?ってオレは信じてる。雅が仕事を大切にしてることもわかってるから、辞めなくていいって、ちゃんと伝えたよね?笑ったり怒ったり、拗ねたりしてる雅が大好きだよ?また、ケンカしたいよ……」 「……雅、そんな失礼を……」 彼の母親が驚くが 「夫婦だって同じですよね?一緒に過ごせば素が見えてくる。それを見せあって、ケンカをすれば、仲直りもする。それと同じですよ?オレはこの先の人生を彼とすごしていきたいと思っています。だからまた、話し合いたいんです」 ポタリ暖かい雫が手の甲に落ちる。 耳はちゃんと聞こえているのだ。 「オレでいい?オレを選んでくれる?」 プロポーズの言葉だと思うが、絡まった彼の心の糸を解くには本音でぶつかるしかない。 「……こんな素敵な人が運命の番なんて……」 大山は『親の前で何言ってんだよ』という表情でみている。雅の精神を戻すのがまずは最優先だ、というくらいだから、何も言わないが…… 堕胎に泣いてるのか、言葉が届いているのか、はわからなかったが、伸ばされた手に応えるように身体を前のめりにベッドに近づくと、両手が手が周り、弱い力で抱きしめられた。少しαの匂いを周りに気づかれない程度に出してみるが拒否反応はおこさない……がその姿を見たのか、突如、藤沢が入ってきて近づくも拒否反応を起こした。少し離れてもらってギュッと雅を抱きしめる。みるみるうちに落ち着きを取り戻していった。 雅に求められている、ということが嬉しくて仕方ない。許される……それがどんなに嬉しいことかを知った。色んな感情を見せられて、自分の演技の幅も広がっていっただろう。 それは今後も変わらない。彼とのやり取りは演技の糧となり、最悪、1人で外出出来ないようなことなら、家にいてもらって構わない。 彼の仕事はリモートワークができることが前回の1件でわかってもいるからだ。 現場に出れば嫌な思いもするだろう。だがもし、どうしても、の時はオレが同行すればいい。過保護と言われようがなんだろうが、雅の仕事は全てオレのところでこなせばいい。 こんなことになったからこそ、自分の目の届かない所に置いておくのは正直怖かった。

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