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第111話(樹目線)

文字顔の腫れ(ダウンタイム)もしっかり引いて退院の日、大きなカバンに荷物を詰め込む雅は忙しなく動いていた。荷物が纏まったところでパジャマから服に着替えていたオレは帽子とサングラスとマスクを渡された。 「パパラッチ対策です。念の為、後部座席の方に乗ってもらいますね?」 「……はぁ、了解」 目覚めた時より少し痩せたように見えるその背中を見つめながらそれを一つ一つ装着していく またあの匂いが鼻腔を掠める。 頭を上げたその首元に鼻を近付けてすん、と吸ってみると、ビクッと反応した雅が 「ど、ど、ど、どうしたんです?」 目に見えて動揺した。 「ん〜……匂いがね……うん、匂いがしたから」 「……どんな?」 そんな恐る恐る聞くようなことか?と思いつつ 「百合の花?そんな感じ」 「……そ、そうですか……」 その先を聞きたそうにしてるくせに口に出そうとしないのは何故なんだろうか? 「まぁ、個人的に言わせてもらえばいい匂いだな、と。そう思っただけ」 ――それだけでなんでそんな嬉しそうな顔すんの? 3ヶ月間の入院生活のおかげで、全く知らない人から知ってる人、同居人、と認識はしている。距離は少し縮まった気はしてるが、気を許したわけではない。 会計はすでに済んでる、とのことで地下駐車場から車はゆっくりと滑り出した。出入口はカメラを構えた記者らしき集団がいたがスルーして家までの道を走行していく。知ってるはずの道なのに、店が変わったりしているのをスモークガラス越しにぼんやりと眺める。 到着した真新しいマンションの駐車場の一角に車を停めるとスライドドアが開いて 「こっちです、着いてきてください」 荷物を担ぎあげる姿に、こいつ荷物に潰されそう……とヒョイッと荷物を奪い取ると 「病み上がりなのに」 と文句を言われるがコイツが持つよりも自分で持った方が十分に安定してる気がしてそのまま運ばせろ、と案内を促した。 裏口と思われる通路からカードキーで次々と扉を開いていく。何重のロック解除だ?と口から出そうになるが、自分の仕事の関係上それくらいのセキュリティがあって当然か、と頷ける部分もあった。 「使用するエレベーターは1番右のものになります。これじゃないと使えないので覚えてくださいね」 エレベーターが開くとまたカードキーをスキャンさせる。ピッという音と共にエレベーターが上昇していく。どうやら部屋は最上階のようだ。こういうのなんだっけ……タワマン? ドアが開くと左側にずんずんと進んでき、ひとつのドアの前でまたカードキーをピッと鳴らすと施錠が外れる音がした。ドアを開いて 「樹さん、おかえりなさい」 と目の前の雅が微笑んだ。 「……あ〜……ただいま……」 慣れ親しみのないその言葉にむず痒さを感じながら開かれた扉の中へ入る。図面で見る限り、向かって右側が大人部屋で、左側が子供スペース、目の前の廊下の先にはリビングがあるはずだ。靴を脱いで歩いていくとさすがにもうカードキーの要らない扉がある。 それを開いて部屋を見渡す。記憶よりも10年先のオレが買った家が目の前に広がる。リビングを見るだけでも自分の好みが散りばめられていた。家具家電は自分で選んだことがわかる 「改めて、おかえりなさい」 「お、おぅ、ただいま」 「コーヒー飲みます?アルコールはまだダメですけど、お腹すいてたらサンドイッチでも作りますけど、どうします?」 「……ん、任せる」 わかりました、とキッチンに消えてく後ろ姿を見送ってリビングのソファに身を委ねた。 程よく座り心地のいいソファが自分好みだな、と思う1つだ。テーブルの上には1台のノートパソコンが置かれているが、見覚えのないものだ。Zwei.co.とシールが貼られているそれは見覚えのあるロゴではあった。 「……このツヴァイって、あのツヴァイだよな」 社長以外にαがいない広告代理店としてその名前くらいは知っている。何件かの案件をもらってCMやモデルの仕事もしたことがある会社だ。Ωの雅にとっては働きやすい職場だろう。 コーヒーの香りが漂ってきた頃、カチャカチャと食器の音が聞こえ出す。そして現れた雅の手にはコーヒーとサンドイッチを乗せたトレイを持ってリビングに入って来る姿だった 「すみません、パソコン出しっぱなしでした」 慌ててテーブルの下に場所を移してコーヒーとサンドイッチが並べられた。 自分の好みを知ってるコーヒーの味が口に広がる。もう一度戻った雅がマグカップを持って戻ってきて自分もコーヒーを飲み始めるが 「どうして座らないんだ?」 立ったままそのマグを傾けていた。 「久々にそこに座ってる樹さんを見ていたくて」 と微笑む。その姿が綺麗だと感じてしまった。手を伸ばそうとしてその手がどこに向かうのかを戸惑いの目で見つめる。 ――今、オレは何をしようとした? そのまま手を見つめるが処理が追いつかない。 「コーヒー、冷めないうちに」 雅は気づいているのかいないのか、わからない表情のままその微笑みを崩さない。 考えることを放棄して目の前のコーヒーとサンドイッチを片付けることにした。 「……美味いな……」 「ありがとうございます」 嬉しそうでいて、寂しそうなその微笑みが儚く見えるのは気の所為だろうか? 今、この瞬間が穏やかすぎて、ずっと続けばいいのに、と思ってしまう。 その気持ちは間違いではなく、数時間後に帰宅してきた子供たちによって振り回されることとなる。

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