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第112話

冷めたコーヒーと煮詰まったコーヒーが嫌いなくせに手を見つめて戸惑っている。だから 「コーヒー、冷めないうちに」 と声をかけた。本能がなにかに突き動かされてるけれど、理屈で解決できないことに戸惑っているようだった。いいんだ、ゆっくりで。 このまま戻らないかもしれない空白の10年。僕があなたの時間を犠牲にした半年間の記憶もそのまま戻らなくてもいいんじゃないか、とさえ思う。そのままのキャリアを重ねて、生活感を出さない俳優、嶺岸 樹 その人でそのまま居て欲しい。僕らの仕事が影だとしたらあなたは光の中で輝くのが仕事だ。それを文字通り影で支えていけばいい。 コーヒーも彼の好みの味、サンドイッチも彼の好物を挟んだもの、だから美味しいんですよ。僕の料理が上手いわけではない。 元々の素材がいいだけだ。ここは僕らと子供たちの為の家。この生活に少しずつ慣れてもらうための1歩を踏み出したばかりだ。過去をどうこう言っても始まらないから、これから未来の話をしていきたいんだ。一緒に未来を作っていきたい。ただそれだけを望むだけでいい。 樹の言う『運命の番』『唯一無二』が本当に僕なら、もう一度僕を好きになってもらえばいい。勘違いだと思うならそれでも構わない。 ただ、ひとつ『傍に居させて』くれれば僕はいいと思う。僕にとっての『唯一』はあなたしかいないから。たとえこの先、僕を選ばない日が来ても僕にとっての『唯一』はあなただけ。 その覚悟を決めて僕は今あなたの隣にいる。だから、あなたが決めたことに僕はついて行く。あなたが決めたことに従う。ただ、他の誰かを選んだ時はきっちり捨てて欲しい。もう一度、この首輪の下に歯を立てて解除して? 僕を粉々になるくらい壊して欲しい。 その気持ちを込めて僕はあなたに微笑む。その瞬間まで微笑んでみせる。 「コーヒーのおかわりはいります?早いうちにおかわりしておかないと煮詰まっちゃいますから」 「……あ、あぁ、頼む」 カップを受け取ってキッチンへ足を進める。記憶がなくても、好みは変わってない。クスクスと笑いがこぼれてしまう。コーヒーメーカーの電源を落として2人分のコーヒーを注ぐ。僕の分には氷をひとつ落とす。味は少し薄まるが、猫舌はそのままだから少し冷ましたコーヒーを直ぐに、一緒に飲みたいからだ。 コーヒーを傍らに置き、熱いうちにどうぞ、とテーブルに置くと、すぐに手が伸びて新聞を読みながらカップに口をつけて飲み始める。 そう、こんなありふれた日常に幸せを感じるんだ。目覚めなかった3週間が地獄のような日々だった。いつ失ってしまうのか分からない不安との戦い。だから、目覚めてくれた事が幸せなんだ。僕のカップを持ち上げると少しだけ溶け残った氷がカップにぶつかって音を立てた。 ん?と一瞬だけ視線がこちらに向くから、コーヒーを飲みながらその視線を合わせる。すぐに逸らされてしまった視線はまた新聞の文字を追う。空いたお皿と飲み終えた僕のマグを持ってキッチンへ向かう。コーヒーメーカーとお皿とマグを洗ってゴミを片付ける。 会社のノートパソコンを拾って 「仕事してきますね、何かあったら呼んでください。あの部屋にいますから」 指をさして仕事部屋になったその部屋を指さす 「わかった」 さすがにリモート会議を目の前で参加するわけにはいかないから仕事部屋でとりあえずツヴァイのパソコンを開く。午後一の会議には間に合った。昨日出した企画書が通るかどうかの結果を聞く為だ。その会議が終わったら、今度は大山との子供服の次のCMに向けて打ち合わせをしなければならない。それが終わる頃にはお迎えの時間だ。時計を見ながら逆算してどこにどれだけの時間を使えるかを計算した。

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