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第2話
† † †
「失礼いたします。会長、お車が参りました」
VIPルームの扉をノックし、タイヤンは声をかけた。
「そうか」のっそりと金剛寺がアイを抱き寄せ立ち上がる。
T都の闇社会を一手に牛耳っている鬼龍会会長である金剛寺に、ママだけでなく女の子が数人、金魚のフンのようにぞろぞろと付き従う。
後ろからついてきていた着飾った女の子たちは金剛寺に愛嬌を振りまきながらも、チラチラとタイヤンに視線を投げかける。
身長一九〇センチメートルの鍛えあげられた筋肉質の体躯。ブラウンがかった短髪に、きりりとした太い眉にくっきりとした、やはりブラウンの双眸。ベースの漢民族の血にゲルマン民族の血が混じっているらしい顔立ちは彫りが深い。
実年齢の二十六歳よりもふけて見られる強面の男臭い風貌で、はじめは無口なタイヤンを怖がっていたホステスたちも慣れるに従い次第に秋波を送りはじめた。だがタイヤンには大事な任務があったし、なによりホステスたちとかかわるのは面倒だった。
別に女嫌いというわけではない。
初めて好きになったのは女の子だったし、過去には恋人と呼べるほどの仲になった女もいた。
しかしなにしろ危険の伴う不規則な仕事だ。
下手をすれば家族にまで危険が及ぶ可能性もあり、なかなか結婚への踏ん切りがつかないでいた。
そんなタイヤンの煮え切らない態度に、彼女は愛想をつかして去っていった。しかし、それを寂しいとも思わず、引き留めもしなかった。
とにかく仕事は忙しく、かつ重要だ。
彼女ならすぐに安全で幸せな生活を送れる相手が見つかるだろう。
だがそれは、タイヤンの言い訳かもしれない。
恋愛に対する熱が湧かないのだ、要するに。
自分は冷たい人間なのだろう。自嘲めいた思いが胸をよぎる。
オメガの匂いがさらに濃くタイヤンの鼻孔を刺激する。
じんと身体の奥に疼くような熱が兆すのはアルファの性だ。
自分の浅ましさに眉を顰める。だが、大丈夫なはずだ。
アイがオメガだとわかった時点で、アルファ用の抑制剤を服用している。
今までも仕事でオメガと接触したことはあるのだ。薬の効果もあるだろうが、自分は一度も触発されて、ラット状態に陥ったことはない。
どれだけアイのフェロモンが強くても我を忘れるような事態になったりしない。
本能だか性だかに、大事な仕事の邪魔をさせるつもりはなかった。
ロビーの行き止まり、重厚なドアの前で足を止めると、タイヤンはドアを押し開けた。途端、雑多で猥雑な繁華街の音と光がどっと流れ込んでくる。
それとともにアイの濃厚なオメガの匂いは和らぐ。ほっと息をつく。
ドアを押さえて壁際に立つタイヤンの前を、屈強な男に前後を挟まれた金剛寺と、金剛寺に寄りかかりよろよろと歩く、足下のおぼつかないアイが通り過ぎる。
胸元を艶やかな黒髪がさらりと揺れて通り過ぎていく。
オメガの匂いに混じって、アルファの精液の匂いもした。VIPルームでなにがおこなわれていたのかは容易に想像できる。
一足先に帰ったが、ゲストがいた。おそらく金剛寺はアイにオメガでなくてはできないような接待をさせていたのだろう。金と権力のあるアルファがオメガをそんな用途で使うのは、珍しいことではない。
タイヤンの眉間に皺が寄る。
オメガ保護法を持ち出せばアイを保護できる。しかし今、そんなことをすれば、もっと大きな計画が台無しになってしまう。今はまだその時ではないのだ。
差し伸べそうになる手をぐっと握りしめて耐える。
「あら、ほんとよ。またいらして」
「ははっ、お前らが待っているのは俺じゃなくて金だろうが」
ママと金剛寺は軽口を言い合っている。
雑踏のざわめきの中から、バイクのエンジン音が微かに聞こえてきた。
雑念を払って感覚を凝らす。
すでに金剛寺を乗せるべく、黒塗りのベンツが店の前に停まっている。
キラリ、となにかが閃いた。
「危ないっ!」
考えるより先に身体が動いて、タイヤンは金剛寺をアイごと突き飛ばした。同時に銃声が響く。スラックス越しに焼けつくような小さな衝撃が走った。
ピシッと小さな音がして、停まっていた黒塗りの車に小さな孔が開いた。続けてもう一発。
「きゃああっ」
女たちの悲鳴が重なる。
「オヤジッ!」
慌てて車から降りてきた男が拳銃を片手に金剛寺の上に被さる。
「待てぃっ」
ふたりのボディガードが狙撃者を捕まえるべく目指して飛び出していく。だがナンバープレートを隠したバイクはすぐさま闇の中へと走り逃げていく。
「オヤジ、大丈夫すかっ」
金剛寺に被さっていた男が慌てて助けおこす。
この男は資料にあった写真で見た。
補佐の鮫島(さめじま)勇次(ゆうじ)、年齢は三十五歳前後か。金剛寺の子飼いの腹心だ。
怒らせると手のつけられない暴れ者だが、男気があって下の者の面倒見がいいから慕われている、とママから聞いた。
「バカ野郎。お前らはなにをしているっ。この役立たずがっ。さっさとあいつを捕まえてこいっ」
「はっ」
怒り心頭で金剛寺が怒鳴り散らすと、あきらめて戻りかけていたボディガードたちはふたたび跡形も見えなくなったバイクの後を追っていった。
「悪かったな。怪我はないか」
タイヤンは金剛寺とともに尻餅をついていたアイに手を差し伸べた。
「あ……、あ……」
どうやら腰を抜かしたようで、黒く涼やかな双眸を瞠って震えている。
タイヤンはアイの細い腕を掴むと、ぐいと引っ張って立ち上がらせた。
首から垂れ下がった鎖が胸元でじゃらりと音をたてた。
はっとする。
はだけた薄手の白いコートの下、乳白色の肌に食い込む赤い縄がちらりと見えた。
いくらオメガとはいえ、こんな少年に首輪をつけ縄で縛りつけるなんて。知らず険しい顔になるが、気づかなかったふりをして後ろを向かせ、尻についた土埃を軽く払ってやる。
タイヤンが今してやれることはそれくらいしかなかった。
「おい」
背後から金剛寺に荒く声をかけられ、慌てて背筋を伸ばして振り向いた。
「申し訳ありません。咄嗟のこととはいえ、とんだ粗相をいたしました。会長、お怪我はありませんか?」
そうだった。タイヤンは、この男を突き飛ばしたのだ。
いくら弾丸から守るためとはいえ、T都の夜の帝王に非礼を働いてしまった。金剛寺を怒らせてしまった可能性に思い至り肝を冷やす。
ここが正念場だと覚悟を決めて金剛寺と向き合った。
「お前、このクラブの黒服だったな」
金剛寺はそうとう怒っているのだろうか。ぎろりとドングリ眼を光らせて身長一九〇のタイヤンを見上げた。
「名前は?」
「ウ・シエンといいます」
偽名を答える。
「ふむ、いい身体をしている」
金剛寺は無遠慮にタイヤンの腕や胸を触る。
「学生時代は剣道と空手をしていました」
「ほう、なんのために?」
「もちろん強くなるためです、会長。男ですから」
まさか本当のことは言えない。
「なるほど、お前とは気が合いそうじゃないか、鮫島」
頷くと金剛寺は、後ろに控える補佐に視線を遣る。
「黒服といっても用心棒にしか使えないんですよ、この子。なにしろこの身体と顔つきでしょ。呼び込みさせたら客が怖がって逃げ出すんですよ」
愛想笑いを浮かべたママが口を挟む。だが、金剛寺は無視してタイヤンに質問を続ける。
「黒服になる前はなにをしていた?」
「会社員をしていましたが倒産しまして、ここで自棄酒を呷っていたところをママにスカウトされました」
少子化の影響で人口が激減し、今や他民族が半数を占めるこの国では就職をするのに出自はさして重要ではない。重要なのはアルファかそれ以外か、だ。そしてタイヤンは紛れもないアルファだった。
だからN国人であろうがなかろうが、普通に就職できる。が、金剛寺はタイヤンが会社員だったという嘘を信じただろうか。平静を装いつつ窺う。
金剛寺は満足げにひとつ大きく頷いた。
「よし、いいだろう。お前は今日から俺のボディガードだ」
ぽんぽんと鍛えられた筋肉を纏ったタイヤンの二の腕を叩きながら命じた。
「え?」
「この俺が雇ってやろう。俺の盾になれ、シエン」
どうやら金剛寺は突き飛ばされたことを怒ってはいないようだ。それどころかいきなりボディガードとは。
残忍な反面、ワンマンだが情に厚い頼りになる男だというママの話どおり、金剛寺は単純な男らしい。こうも上手くいくとはタイヤンも予想外だ。
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