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第3話
「ちょっと、困りますよ、会長。シエンは私が拾ったんだから」
すぐにママが異議を唱えた。
金剛寺に口答えできるのは、たぶん金剛寺の一番古い愛人だったこの人くらいだろう。
「うるさいっ。俺が決めたことだ。口出しするなっ」
さすがにT都の夜を牛耳っているだけのことはある。凄みのある怒声に、アルファのタイヤンですら竦みそうになる。
しかしここですんなり快諾すれば怪しまれるかもしれない。
まだ怒気を孕んでいる金剛寺に首を横に振ってみせる。
「はい、お話は大変ありがたいのですが、会長。私は、その、組員になるのは……」
クラブの黒服兼用心棒と、鬼龍会会長のボディガードでは、まったく違う。
ふたつ返事で、わかりましたと言えるモノではない。一般人ならそう考えるだろう。
下手に疑われないために、普通の社会人が示しそうな反応をする。
ここまできて疑われるわけにはいかない。
すると金剛寺は、さっきまで見せていた鬼龍会会長の顔を崩して豪快に笑った。
「はっはっ、心配するな。お前は俺の命の恩人だ。組員にならなくてもかまわん。ボディガードとして雇ってやると言ってるんだ。給料は今の倍出すぞ。どうだ、それでも不服か?」
最後は笑っていなかった。いや、ずっと眼だけは笑っていない。
「……承知しました」
しかしタイヤンも世間知らずな子供ではない。金剛寺がそう言っても、この裏社会に一歩でも足を踏み入れたら、もう簡単には抜け出すことはできないだろうことはわかる。
一般人なら、どれだけの条件を提示されようとも二の足を踏むだろう。
だが、今のタイヤンにとっては好都合だ。これで金剛寺の懐に入れるのだから。
「よし、じゃあ、あの役立たずどもは格下げにしろ、鮫島。二度と俺の前に顔を出させるな。今日からこいつを付ける。お前もしばらくは俺の護衛をしろ」
金剛寺が命じると傍に立っていた鮫島は、はっ、と応えた。金剛寺が車に向き合ったのを見てとると、素早く後部ドアを開ける。
「おい、帰るぞ」
金剛寺はアイとともに乗り込もうとしながら、タイヤンに向かって命じる。
しかしタイヤンはなおも金剛寺に訴える。
「お言葉ですが、会長。このまま乗ると、シートを汚してしまいますし、一度クラブに戻って、私服に着替えませんと……」
銃弾がかすった黒いスラックスは太腿の生地が裂け、うっすらと滲んだ血で汚れていた。しかし金剛寺はタイヤンの言葉を遮って、うるさそうに手を払う。
「そんなものは、どうでもいいだろ。さっさと乗れ。この俺を待たすな」
苛立ちが声に滲みはじめている。まずいなと判断し、戻ることをあきらめる。
「はい、では」
くいっと鮫島が助手席を顎で示した。ドアを開けようとしたその時、アイがタイヤンの足下にしゃがみ込んだ。
ほっそりとした指でコートの内ポケットからハンカチを取り出すと、細長く折りたたんで、血の滲む太腿に巻きつけた。途端に懐かしい記憶が甦る。
ずっと昔、まだ子供だったタイヤンの傷だらけの脚に優しく触れた、あの白く小さな手。
今でも胸の底に深く沈む、でも決して喪われることのない甘美な想い出。
そういえば、アイはどことなくあの少女に似ている気がする。
「あ……」
りがとう、と、言うより先にアイは、顔を逸らして立ち上がった。
「これでいいですか?」
タイヤンではなく、金剛寺に向かって尋ねる。
「ああ、かまわん」
すでに後部座席に座って鷹揚に頷いている金剛寺の隣に、アイは鮫島が押さえているドアから猫のようにするりと乗り込んだ。
タイヤンは軽く頭を振る。どう見てもアイは少年だ。あの時の少女であるはずがない。同じ状況に、一瞬、錯覚をおこした自分に苦笑する。
「よかったです、ご主人様のお役に立てて」
もうタイヤンの存在を忘れたかのように、アイは車に乗り込むとあまったるい声で金剛寺に寄りかかっている。
「はは、お前は本当にかわいいな」
染みの浮いた皺だらけの大きな手が艶やかな黒髪を撫でる。アイは嬉しそうに微笑んでいた。
タイヤンは目を瞠る。
金剛寺に虐待されているとばかり思っていたアイが、金剛寺の役に立てたと喜んでいるのが信じられなかった。
窺うようにふたりの様子を観察する。しかし夜の車中は暗く、嬉しそうな表情に隠されたアイの本心までは読み取れない。
「おい、早く乗れ」
後部座席のドアを閉めた鮫島が居丈高に命じる。ドアを開けると、タイヤンは車に乗り込む前に振り返った。
「ママ、すみません。お世話になりました」
頭をさげる。
「いいのよ。会長の我が儘は今に始まったことじゃないし。まあ、元気でやることね」
ぽんぽんとママはタイヤンの背中を軽く叩いた。
「でもね、金剛寺はド変態だから気をつけたほうがいいわよ」
乗り込む寸前、ママが呟いた。
どう変態だというのか。問う間もなく、ママが外からパタンとドアを閉めた。
だが訊くまでもないかと思い直す。
赤い縄で縛めたアイに、白いコートだけを身に着けさせて外に連れ出しているのだ。確かに変態だとタイヤンは納得する。
車が滑らかに走り出す。
ここからはもう本当に敵陣だ。この先、頼れるのは自分ひとりという孤独な戦いが始まろうとしている。
もしタイヤンの身分が金剛寺たちにバレたら命の保証はないだろう。
考えただけでプレッシャーに身震いする。だがそれも一瞬だった。走り出してしまえば逆に腹が据わる。
もともとがポジティブな性格なのだ。
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