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第5話
† † †
タイヤンは眉を顰める。
仕事柄、身体を売るオメガには何人も会ったことがある。確かにみな一様に中性的でかわいらしく、セクシャルだった。それは認める。
しかしアイほど、タイヤンの劣情をかき立てるオメガに出会ったことはなかった。
匂いもまったく違う。これほどまで甘美でくらくらする香りは、今まで嗅いだことがない。芳醇で官能を強烈に刺激する。
これはアイ特有のモノなのか。
まさかアイは――。
『運命の番』という言葉が頭をよぎって、思わず苦笑する。
そんなものは都市伝説にすぎない。
ヒート状態になったオメガのうなじをアルファが噛むのはあくまでも本能で、それで番になったとしても運命だとは思わない。アルファの本能に振り回されるオメガは、運が悪かっただけだ。
タイヤンの戸籍上の父親はアルファだったが、育ての父はベータだ。
オメガだった母は実父である番のアルファの暴力が酷く、DVに気づいた警察官の養父がタイヤンともども保護をした。その後、ふたりは結婚した。
継続的な暴力の後遺症で、心身ともにぼろぼろだった母はタイヤンが小学校三年の時に亡くなった。
記憶にある母は病床にあって、小さなタイヤンを抱き寄せながらベータだった育ての父に幸せそうに微笑む儚げな人だった。
オメガがアルファと番っても幸せになるとは限らないし、相手がベータだったとしても幸せになれるのだ。
ぎゅっと唇を引き結ぶと、感傷的な思い出を頭から追い払い、意識を仕事へと戻した。今は感傷に浸っている場合ではない。
ただひとりで鬼龍会会長の懐に潜り込むのだ。隙を見せてはいけない。
「着いたぞ」
横でハンドルを握っていた鮫島が囁く。
自分の思考に集中していたタイヤンは、はっと我にかえり顔をあげた。
そこはアルファたちが住む高級住宅街だった。
目の前には、精緻な彫刻を施した屋根瓦が乗っている壁のような門が聳えている。
鮫島がリモコンを操作すると門扉がゆっくりと開いた。
やっとオメガの強烈なフェロモンから解放されると思うと、タイヤンはほっと息を吐いた。
金剛寺の本宅は住宅街の外れの奥まった一軒家で、家というより屋敷といったほうが相応しい。
監視カメラが数台設置されている重厚な門扉を潜ると、手の込んだ和風庭園が広がっている。その先に見えていた古めかしい純和風家屋の正面で、ゆるゆると走っていた車は停まった。
見るからに柄の悪い男たちが走って出てきた。車のまわりに集まると、一斉に深々と頭をさげて挨拶をする。
「会長、お帰りなさいっ」
「会長、お怪我はありませんか」
すぐさま駆け寄ってドアを開けた男は、顔写真で見知っている。事務局長の阿久津(あくつ)だ。でっぷりとした金剛寺とは対照的に痩せぎすで、銀縁眼鏡をかけカマキリのような風貌だ。髪は薄く額が広い。歳は四十前後くらいだろうか。
金剛寺が狙撃されたことは、すでに電話で鮫島が伝えていた。心配そうに金剛寺の様子を窺っている。
「ああ、大丈夫だ」
鷹揚に応えると金剛寺は太った身体を揺すりながら、手中の鎖を引っ張って車から降りた。と、その勢いでアイも車から引きずり出される。
いつの間にかコートを着直していたアイは頬を紅潮させ、息を乱しながらも、それでもなんとか自分の足でよたよたと歩いていく。
アイの体内には、まだ電動ローターが埋まっているのだろう。おぼつかない足取りで、金剛寺に寄りかかるように歩いていく。ふたりの後ろを阿久津が付き従う。
「大丈夫か?」
タイヤンを乗せたまま、鮫島は車をゆっくりと動かした。
車内はまだアイの匂いが充満しているが、さっきドアを開けた時に薄まり耐えられないほどではない。
「はい、なんとか」
慌てて飲んだ抑制剤もやっと効いてきたのだろう。
「挨拶がまだだったな。俺は鮫島だ。よろしくな」
向き合って、初めてまともに鮫島の顔を見た。色褪せた茶色の髪を短く刈り込んでいる。ワイルドな顔立ちだが、笑うとくしゃりと顔中に皺が寄り愛嬌があった。
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭をさげた。
鮫島は補佐兼ボディガードということだが、言ってみれば金剛寺の手足のようなものだろう。事務局長の阿久津は金庫番というところか。実質このふたりが金剛寺を支え、鬼龍会を切り盛りしているらしい。
「ついてこい。初仕事だ」
車を車庫に入れた鮫島は、タイヤンを促し屋敷へ向かう。
沓脱だけで二畳はありそうな広い玄関から家に上がる。
この屋敷に会長夫人はいない。
三年前、若い男に入れあげたあげく、金剛寺に叩き出されたという話だ。男のほうは行方不明で今も見つかっていない。
夫人が浮気したのは金剛寺が男として不能になったからだ、とすべてママからの情報だ。ママがここまでタイヤンに話したのは、おそらく下心があったからだろうが、気がつかないふりを押し通した。
情報の代償に身体を使うのはタイヤンの流儀ではない。その代わり、あのクラブで働いていた期間は無給だったし、店のルールを無視して女の子に絡む質のよくない客はタイヤンが問答無用で対応した。それで報酬は相殺したつもりだ。
もちろん、ママからだけではない。鬼龍会に関することなら、どんな些細なネタも黒服も含め、クラブの従業員たちからも漏らさず聞き出した。
長い廊下を歩きながら、鮫島に気づかれないよう辺りを見回す。廊下の右手は障子が並び、左手は中庭に面していて、ガラス戸が続いている。
今は姿が見えないが、家事は通いで年配のハウスキーパーが仕切っているらしい。
タイヤンが金剛寺を助け、ボディガードとして雇われたことは、もうこの屋敷には知れ渡っているのだろう。若い男たちが尊敬の眼差しでタイヤンをちらちら見るのが面映ゆい。
「こっちだ」
鮫島が突き当たり右手の障子を開けた。
六畳ほどの簡素な部屋だ。真正面には鉄製の頑丈そうなドアがある。
右側には作り付けのクローゼットがあり、左の壁際には安っぽいパイプベッドが置かれている。
「この奥はオヤジの寝室だ。お前は俺と夜間交代で、この部屋でオヤジの警護をするんだ」
そう言うと鮫島は右側のクローゼットを開けた。
「一日おきということは、今日泊まれば明日の夜は家に戻ってもいいんですか?」
「ああ、昼間はオヤジについて歩いて、夜、オヤジをここに送り届けたら帰れる」
雑多な物が詰め込まれているクローゼットの中をひっかき回すと、鮫島は着古したジャージと救急箱を取り出した。
「とりあえずこれを着ろ。明日、新しいスーツを用意してやる」
鮫島から両方を受け取る。タイヤンはアイが巻いた太腿のハンカチを解くと、黒服を脱いでボクサーパンツ一枚になった。
パイプベッドに腰かけると傷口を検める。
太腿の傷は小さな一文字に皮膚を赤く焼き裂いていた。
しかし流血のわりに傷は浅い。縫うほどでもないと自己判断すると、消毒し化膿止めを塗って絆創膏を貼る。
痛みはあるが、ここまで普通に歩いてこられたのだから医者に診せるほどのこともないだろう。
金剛寺を襲った狙撃手は、さすがオリンピック代表になったほどの腕前だ。
まったく見当違いの方向へ撃つのでもなく、深手を負わすでもない絶妙の加減だった。
もっとも、そのためにタイヤンも含めて入念に準備し、リハーサルを繰り返した。
日頃の訓練の成果だろう。
と、奥の寝室から、微かな喘ぎ声が聞こえてきた。思わず頭を巡らし、視線を鮫島に遣る。
鮫島はやれやれというふうに肩を竦めると、ぽんとタイヤンの肩を叩いた。
「俺は、今日はこれであがりだ。お前ももう休め。もっとも休めたら、だがな」
意味深に含み笑いをして、鮫島は部屋を出ていった。
「シエン」
金剛寺がドアの向こうから呼んだ。
「はい」と応じ、急いでジャージを着ると、ドアをノックする。
「入れ」という言葉に、「失礼します」と返し、ドアを開けた。途端、目を瞠る。
十五畳ほどの寝室。真っ先に目に飛び込んだのは、壁際に置かれた天蓋のあるキングサイズのダブルベッドだ。だが、それだけはない。
天井にはロープが吊られ、磔用の柱や三角木馬、他にも鎖や鞭の類いが目に入った。
ベッドの端に座った金剛寺の前で、アイは全裸を赤い縄で縛められている。股間には黒革の細いベルト。
白いコートの下からちらりと見えた白い肌に食い込んだ赤い縄を思い出す。
「はぁ……、あ……っ」
後ろ手に縛られ息を乱し、がくがくと身体を震わせながら、アイはこちらに身体を向けて膝立ちをしている。
黒い革ベルトで覆われた先端からは、透明な露がとろとろと湧きだしている。
ずっと挿入されたままだったのか、股間から響くローターのヴィィという微かな機械音。
あまりに異様な光景にタイヤンは一歩も動けず、白い肌に縄を食い込ませて喘ぐアイを見つめていた。
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