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残業を済ませ、会社を出た時にはすでに街に酔っ払いが徘徊する時刻になっていた。藍季のマンションは会社までは徒歩十五分だがこの飲み屋街を抜けなければ帰宅できない。酔っ払いをすり抜けながら早足でマンションを目指していた。
まあこんな街だから喧嘩やら絡みやらも日常茶飯事で、カップルが痴話喧嘩を繰り広げていてももう驚きすらしない。
「出ていけ!このデブ!」
――なんて酷い罵声だ。
聞こえてきた男の怒鳴り声に、頭の片隅で彼女が可哀想だとか思う。しかし、突き飛ばされて足元に転がってきたのは想像より遥かに図体がでかかった。デブというよりガタイがいいだけだが、身長もあるので印象はとにかくでかいという感覚だ。
男はむくりと身体を起こし、背中を擦った。そして何気なく、藍季を見上げた。
「――っ」
その顔に思わず息を止めた。忘れていたかった記憶がぶわっと一瞬蘇った。
「あい」
彼もすぐに藍季だと分かったらしい。忌々しい呼び名を口にした。
吐き気がするほど込み上げる暗い感情をなんとか飲み下す。
「……こんなとこで何してんだよ、佐山」
額の片隅にある星型の傷跡は確かに佐山千草である証拠だ。幼い頃に階段から落ちた際にできた傷らしい。
記憶にあるのは中学生の佐山の姿だ。八、九年と言ったところか。あの頃のまま、とは言えないが、どこがぼんやりした表情と気の抜けた雰囲気は変わらない。
「フラれた」
「見りゃ分かるよ。つーか、男じゃん、あれ」
デブ!と罵り突き飛ばしたのは確かに男だった。友人と喧嘩したのかと思ったが佐山の口振りから、やはり恋人の類だったらしい。
「好きな子ができたから俺はいらないって。追い出された」
失恋したというのにさほどショックを受けている様子もなく、立ち上がった佐山は尻の砂利をぱんぱんと払った。
「あっそ……」
理不尽な理由でフラれたんだから悔しがるなり悲しむなり怒るなりしろよ――飄々とする佐山に苛立ちを覚える。そういうところは本当にあの頃から変わっていない。
この場にいても腹が立つだけだ。さっさと帰ろう。佐山にくるりと背を向ける。
「じゃあな。お元気で」
一歩踏み出した時にすかさず腕を掴まれた。振り返り、睨む。
「……なんだよ」
「あい。一晩だけ泊めてくれないか」
はあ?と眉を持ち上げる。なんで嫌いで仕方ない野郎を泊めなければならないのだ。
「やだね。自分ち帰れ」
「鍵、アイツんち。今夜はさすがに取りに行けない」
お願い、と言わんばかりに捨てられた子犬視線を向けてくる。情に訴えかけてくるこれは無意識にやってるのか? この男は馬鹿なので基本的には深く考えていない。中学生の時も思っていたが、佐山は末っ子なのだろうか。本人は無自覚だろうが甘え上手なのだ。
「野宿はやだ」
「…………」
「あい」
きゅ、と腕を握る指に力が込められる。
藍季は舌打ちをした。
「一晩だけだからな!あとは自分でなんとかしろ!」
吐き捨てるように言うと、佐山は目を少しだけ大きくし、ありがとうとぼそぼそ呟いた。
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