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第五章 やさしい腕の中で4

「宏輝……」  浴室の外から将大の声が聞こえる。 「……何?」  湯は浴槽から溢れ出し、洗い場のタイルに小さな水たまりを作っている。宏輝は慌てて蛇口をひねり、湯を止めたが、溢れてしまったものは戻らない。宏輝は無性に腹が立った。 「宏輝、大丈夫か?」 「大丈夫だよ。何か用?」 「いや、そういうわけじゃないんだ……」 「じゃあ何?」  宏輝は冷たい言い方しかできない自分にも腹が立つ。将大はなかなか上がらない宏輝を心配して声をかけたに違いないのに、それがわかっていても、子供のように癇癪を起してしまう。 「宏輝、本当に大丈夫なのか?」 「しつこいよ。僕が大丈夫だって言ってるんだから、マサくんが気にすることじゃない」 「……悪かったよ。じゃあ、今度こそ、俺行くから」  それっきり、声は聞こえなくなった。  しばらくして宏輝が上がると、そこに将大の姿はなく、代わりに小さなメモ書きが座卓の上に残されていた。 『明日、大学で』  それはまるで宏輝の登校を催促するかのような内容だったが、今の宏輝は不思議と嫌悪感は抱かなった。それどころかささくれた気持ちがふんわりと和らいだのだ。 「行かなくちゃ……」  翌朝、久しぶりに大学へ行こうと外へ出た宏輝だが、あまりの暑さにたじろぎ、一度部屋へ戻ってしまう。この気温じゃ長袖のパーカーを羽織るのは厳しいところがある。  宏輝はどうしようかと考える。夏は宏輝にとって大敵だ。袖がある衣類は周りからも浮いてしまうし、逆に注目も集めてしまう。  考え抜いたすえ、宏輝は白い薄手の長袖Tシャツを着ることにした。  大学への道すがら、将大と合流する。宏輝の服装に初めは驚いた様子だったが、将大は似合うよ、とだけコメントした。 「そうだ、宏輝。今度一緒に服を見に行かないか?」 「服?」  将大から誘われたのは初めてかもしれない。宏輝は彼にどういう心境の変化があったのだろうと考える。 「それから猫も見に行かないか?」 「猫?」 「何でも猫を見ながらコーヒーが飲めるカフェがあるそうだ」  将大がいう猫カフェには宏輝も多少の興味はあった。猫は好きだ。だが実家では動物は飼えなかった。将大の実家には猫がいたような気もする。遠い昔の話だ。 「あとは映画。今ちょうど宏輝が好きな監督の新作やってるだろう。よかったら一緒に行かないか?」  そのとき、将大の横顔を見て、宏輝はようやく気がついた。耳まで赤くなっている。 「もしかして、マサくん。デートに誘ってるのかな?」 「伝わってなかったのか?」  将大のこういう不器用なところが、宏輝は好きだった。

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