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第五章 やさしい腕の中で9

 宏輝は悲鳴を上げそうになるが、ここが電車内だということに気づき、袖口を噛んで吐き気をぐっとこらえる。宏輝にとってひとりの痴漢に身体を触られる恐怖よりも、他の乗客から変な目で見られる恥辱のほうが苦痛だった。  宏輝が抵抗しないとわかると、背後の痴漢はますます大胆になっていった。  臀部に当たる硬い何か。想像したくもない。男相手に性的に興奮するなんて信じたくもない。耳朶をかすめる生温かい吐息。荒い息遣い。家畜のような鼻息。汗の臭い。何もかもが気持ち悪い。  ――ああ、誰か……っ。  宏輝は声を出さないようにするので精一杯だった。頭がくらくらする。気道が狭まっていく。目がチカチカする。このままでは過呼吸になってしまう。  痴漢の手が宏輝の衣服をくぐり、直接肌へとへばりつく。まるでナメクジのようだ。  ――もう耐えられない。誰か、誰か助けて……。 「……っあ……も、い、嫌だ……」  宏輝の視界は急激に狭まり、やがて暗闇の世界へ飲みこまれた。 「――大丈夫ですか?」  ガヤガヤと人々が行き交う雑然とした音の中で、その声は不思議とクリアに聞こえた。この声に聞き覚えがある。宏輝の意識はゆっくりと浮上し、やがて目の前の情景をはっきりと認識する。  だが眼前に現れた人物は、決して目にしてはならない相手だった。 「間宮……?」 「先輩、気づいてよかったです」 「何で……? 何でお前がここに?」 「動けそうですか? それなら場所を移動しましょう。ここは人目につきます」 「人目って――」  間宮の言葉で、宏輝はようやく自分の置かれたイレギュラーな状態に気がつく。宏輝たちがいるのは満員電車ではなく、駅のホームだったのだ。辺りを見渡しても覚えがない。おそらく普段利用しない駅なのだろう。  だが、そんな些細なことよりも、宏輝には聞かなければならないことがある。 「――僕らの後をつけていたのか?」  今日は休日であり、宏輝たちがデートで立ち寄った場所は大学とは正反対の位置にある。宏輝が問うと、間宮は複雑な表情を浮かべて、はいと言った。 「でも、俺がいたのは本当に偶然なんです。たまたまこっちのダチと会う用事があって、それで帰りのホームで偶然先輩たちを見かけて……でも声かけられなくて、当然と言えば当然なんですけど。それで先輩だけが電車に乗ったから何かあったんじゃないかって心配で、そうしたら、先輩が――すみません、思い出したくもないですよね。俺のことも」 「お前が僕を助けてくれたのか? 本当に?」 「本当です。これだけは信じてください」  間宮の目はまっすぐで、とても嘘をついているようには思えなかった。

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