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第八章 最奥の汚点3
ついて行ったんじゃない。無理やり連れていかれたんだ。
目の前に迫るのは薄汚い公衆トイレの壁。塗装の剥げた個室には、この場所があまり使用されていないことを如実に表している。背後から押さえつけられ、身動きが取れない。
当時十歳の宏輝は見知らぬ男に犯されていた。泣き叫んでも目一杯に抵抗しても、誰も助けに来ない。世界でひとりぼっちにされてしまったような絶望感。
自分の知らない誰かに身体を触られる。あまつさえ、内部に侵入される。
耳元で可愛い可愛いと囁かれる。そのたびに違うと否定するが、その返答でさえ男を喜ばせただけだった。
――……ろ……っ。
やめろやめろやめろ。
――……だっ、……ろ!
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
背後の男の指がぬめる。侵入する。宏輝は自分の中に自分以外の何かが入ってくるという未知の感覚に襲われる。
足元から地鳴りのようにおぞましさが湧きあがる。全身がガクガクと震え、汗腺からは脂汗が噴き出す。耳鳴りがし、目眩に襲われる。声が出ない。
――ろ……ひろ……っ!
誰か誰か誰か――っ!
――ヒロっ!
ああ、あの声は――。
◇
宏輝の意識はそこで急浮上した。
「ヒロっ!」
「……マサくん?」
気がつくと、将大は焦った顔つきをして横たわる宏輝を見下ろしていた。その目は潤み、泣き出しそうになっている。どうして将大はこんな顔をしているのだろう。
ふと、宏輝は自分の現状に思い至る。
ここは将大の寝室で、布団が一式敷かれていて、でも何となくそこで寝るのは嫌だと思い、宏輝は毛布に包まりながら数日を過ごしていたのである。
「マサくん……今日は何月何日なの?」
スマートフォンの充電はとっくに切れている。この寝室には日にちや時間がわかるものが何ひとつない。扉に鍵がかかっているわけではないが、何となく、そのドアノブに触れてはいけないんだろうなあと、宏輝は思っていた。
「充電器貸して? 僕の、もう充電無くなっちゃって」
将大は宏輝の問いに何ひとつ答えようとはしない。これもいつも通りのやりとりだったと思い出す。将大は――。
「ヒロ、よかった。熱はもう大丈夫か? 一時はうなされていて、病院へ連れて行こうかどうか迷ったくらいなんだ」
「熱?」
「本当によかった……ヒロが元に戻って……このまま俺の宏輝がどこかに行ってしまうんじゃないかと思うだけで怖くて……本当に、本当によかった……っ」
――将大は、少しおかしくなっていた。
そして宏輝もまた、彼に迎合する形で、将大の元に居続けている。
――いつの間にか僕自身もおかしくなってしまったのだろうか。
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