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第26話ニューワールド
俺は、1年前まで複合機の営業マンをやっていた。お世話になった先輩の1人である渡辺さんは、機械のメンテナンスや修理をしていて、よく一緒に顧客先へ訪問した。
退職後、俺を知る人間に初めて遭遇した。
「元気そうで安心した。今は何をやってる……んだ?」
渡辺さんは俺と星野をまじまじと観察する。明らかに俺と見た目が正反対の星野は、彼の思考にどのような影響を与えたのか気になった。
「今は…………なんでも屋、みたいな仕事です」
「前よりかは生き生きしているみたいだね。他にやりたいことは無いの?」
狐社会に戻されてから、『やりたいこと』について考えたことがなかった。自分の意思は無いに等しく、流されるまま仕事をこなす毎日だ。
「無いですね。今が精一杯なんで」
「お前が辞めてから木ノ下もすぐに辞めてしまったんだ。うちの支店が大変なことに……」
「え、木ノ下さん…………?」
「なんだ。木ノ下のことも知らなかったのか」
そこからプツンと、渡辺さんの声が聞こえなくなった。
深い深い感情の底で強制的に眠らされていた木ノ下さんの記憶が呼び覚まされる。
俺より20センチ以上高い身長、長めで固い髪質、笑うと目が細くなるところ、見た目よりむっつりスケベで、何よりさり気なく優しいところ。白い兎の名前はミルクだった。
敢えて『木ノ下さん』を避けてきた。『木ノ下』という単語には関わってはいけない、これ以上迷惑を掛けてはいけないと言い聞かせてきたのだ。
自らで記憶に鍵を掛けていたのかもしれないし、紅緒さんに記憶を操作されていたのかもしれない。
だが、しっかりと戻ってきた木ノ下さんの姿は、俺の心を激しく揺さぶった。 揺れた心からは、キラキラと光る思い出が零れ落ちた。
「ねえ…………狛崎さん、大丈夫っスか?」
どれくらい経っただろうか。
星野の声で我に返る。ひらひらと目の前で手のひらが舞っていた。
「え、は、渡辺さんは??」
「10分前に帰りましたよ。本当、何かあったんすか」
しいんとした住宅街の夜道には、俺と星野しか居なかった。
「いや、いい。早く帰る……」
「あなたフラフラですよ。おんぶしましょう」
「いやいや、大丈夫……」
俺の事を気にするなんて星野らしくない。
執事のように差し出された背中を丁重にお断りしようとしたが、足元がふらついて上手く歩くことができなかった。眠くて眠くてしようがないのだ。
「たまには俺に甘えてください」
「お前に借りを作りたくない……けど、ごめん」
「狛崎さん、頑張りすぎですよ。所詮狐なんてどう足掻いても狐です。人間にはなれやしない」
「…………ん、そうだよな……」
そんなに広くもない背中は俺が乗るには十分だった。確かに頭が思うように働かない。
(温かいな……木ノ下さん、今どこにいるんだろ)
程よい揺れにうつらうつら眠る。
遠くで犬の遠吠えが聞こえた。
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