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2018年12月2日-3
「……なぁ。俺、もう大丈夫だよ?」
千景は囁いた。何が、とは言わない。岳がちょっとばかし鈍感だとしても、伝わっているはずだ。
「これから俺の家、行かない?」
さぁ、どうなる……?
「いや、今日もやめとくわ」
……今夜もまた、さらりと断られてしまった。その瞬間、ずきりと胸が痛んだ。
「何で?」
酒の力により、いくらか強気になっていた。千景は唇を少し尖らせ、岳に視線を向ける。すると岳は仏頂面になり、すっと前を見た。
……怒っているのか?
彼は何も言わない。口ごもっているようにも見える。煮えきらない様子に、千景は不安と恐れに苛まれた。
……俺の身体に、飽きたのだろうか。
それとも、やっぱり他に相手ができたのだろうか。
火照っていたはずの身体が、さあっと冷めていくのを感じる。
嫌だ。はっきりとそう思ってしまった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。久我くんにそんな気がさらさらないと分かっていても、この想いが実らなくても、彼のそばにいたい。この先も、関係を続けていたい。
慰みもののままでいい。久我くんと繋がっていられるのなら、それ以上のことは決して望まない。望まないから……ーー
誘惑……、もっと誘惑しないと。
「久我くん」
千景は岳の腕を引き、面食らった表情を見せた彼の唇を奪った。岳が戸惑ったように鼻息を乱し、身体を硬直させた。
通りすがる人々が、ぎょっとこちらを見てきたが、知り合いでもなし、構わなかった。……数秒後、唇を解く。閉ざしていたまぶたをあげれば、岳は目を大きく見開き、こちらを凝視していた。
「……あの日からずっと、俺に触ってくれないよな」
そう口にした瞬間、胸が抓られたように苦しくなり、同時に鼻の奥がツンとした。口の周りがぶるぶると震えそうになる。それらをぐっと堪え、岳をまっすぐに見つめた。
「俺は、久我くんに触れたくて仕方ないけど、君はそんなことない? ……俺が、欲しくない?」
岳の顔がぐしゃりと歪んだ。その表情が何を意味するのか。推し量ることができず、千景は狼狽えた。
思い上がりも甚だしい科白だっただろうか。……あぁ、そうだ。そうに違いない。久我くんに、不快に思われたんだ。
そう思い至った瞬間、胸のうちにどっと羞恥が噴き出した。気が変になりそうだった。岳から身を離し、顔を伏せる。
今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。ただのセックスフレンドが、いや、それ以下の存在が何を必死になっているんだ……。
ダメだ、ダメだ。どうにかして、取り繕わないと……。
千景は緊張しながらも顔をあげ、口元に笑みを描いた。顔が蒼ざめていないか、心配だった。
「……嘘、冗談だ。ごめん、急に……俺、何してーー」
「……クソッ」
聞こえてきた悪態に背筋が凍り、笑顔が引き攣る。
後悔先に立たず、だった。岳を怒らせてしまったのだ。
後ずさるなり何なりしたいのに、靴の裏と地面が接着剤で引っついたかのように、足が動かない。冷や汗が胸のうちでだらだらと流れる。……どうしよう、どうしよう。頭が真っ白になりそうだった。
その時だ。ふいに腕を強く掴まれ、千景は目を丸くした。呆然としていると、ぐいぐいと腕を引っぱられ、強引に歩を進めさせられた。
「アンタん家、行くぞ。ここからだと、そっちの方が近いだろ」
怒気を孕んだ声で言われ、胃の腑が竦むような感覚に襲われる。
何も言えなかったし、何もできなかった。往来から飛んでくる好奇の目を振り払わんばかりに、岳は足早に恵比寿駅へと向かう。千景はただそれに従うしかなかった。
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