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2019年2月1日-1
「えーっ!? ちーちゃん、今夜来れねーの⁉」
2月1日、金曜日。時刻は19時半前だった。新宿の取引先への訪問を終えて直帰した千景は、スーツのまま自宅近くのスーパーで買い物をし、帰路につこうとしていた。
スマートフォンから耳をつんざくような叫び声が飛び出し、耳の奥がキンキンとした。千景は苦笑し、スマートフォンを耳元から離しながら、やたらと声の大きい電話の相手ーー同期の樫原 に謝罪した。
「ごめん、かっしー。今夜は先約があるんだ。また今度な」
「なんだよー。今日は16時半のアポ以降は空欄になってたろー? そう思って飲み会セッティングしたのに!」
千景はまた苦笑しながら、左手に提げた買い物袋をゆらゆらと揺らした。勤務先であるトーラス製薬の営業社員は、社内の受注管理システム上で案件管理を行っている。その中には日々の行動予定も含まれており、社員であれば誰でも、その内容を確認することができる。
「だって、プライベートの予定だし」
「プライベート? なになに、デート? ついに彼女ができたのか?」
「残念ながら違うし、彼女はできてないな」
いや、本当はその通りで、彼女ではなくて彼氏ができたけど。と胸のうちで独りごち、自宅マンションまでの夜道を、どこかるんるんとした足どりで歩き続ける。
今夜は自宅に、岳が泊まりにくる。世間一般でいう、おうちデートというやつだ。
昨年のクリスマスイブに交際を始め、年が明けてからは毎週末、どちらかの家に泊まり、部屋でゆっくり過ごしたり、一緒にジムで身体を鍛えたり、泳いだり、ハーモニカ横丁など自宅近くの飲み屋街で昼間から呑んだりしている。
来週には岳のアテンドで、富士見のスキー場でスノーボード三昧の予定だ。それが、今から楽しみだった。
「本当に来れねーの? 今夜の飲み、女の子も呼んでるんだぜ? ほら、第1営業部の山本さんに、品質保証部の佐野さん、それから製造管理部の三井ちゃん」
「申し訳ないけど……」
「分かったよ」
と樫原は大きなため息をつきながらも、引き下がってくれた。「けど、次は来いよ。お前と飲みたいって言ってる子、多いんだからな! その斡旋させられてる俺の気持ちになれっての」
「あはは、ごめん……」
三度目の苦笑を洩らして、電話を切った。……当然ながら、職場でカミングアウトをしていないため、こういった類いの誘いは、これまでもそれなりにあった。断りきれず、渋々参加することが多いが、飲みの席で女の子からアプローチを受けると、こちらにその気がないため、相手を傷つけぬようかわすのに苦心していた。そして飲み会が終わる頃には、精神的疲労が蓄積し、女の子にもそういった場を設けてくれた同期にも申し訳なく思うのだった。
いっそ、ゲイだと告白してしまえば、楽なのかも知れない。
けれども、そこまでする勇気があるかと言えば、なかった。会社の人たちが自分に向けてくるであろう視線に、耐えられる気がしなかった。
……まぁ、いい。これ以上、考えないでおこう。
少しばかり憂鬱になった気持ちを切り替えようと、ゆっくりと深呼吸した。そして、岳のことを想う。
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