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2019年2月1日-4
本日の現場は浅草で、大手ビジネスホテルの外観工事に伴い、足場を組み立てていた。
始業は8時からで、順調に作業が進んでいったため、定時の17時にすんなりとあがることができた。現場を離れ、岳は帰宅ラッシュ前の比較的混んでいない電車に乗って、駒込の自宅へと帰った。
千景とは、19時半に彼の自宅マンション前で落ち合う約束だった。時間があるので、作業着を洗濯することにした。備えつけの古い洗濯機がごとごとと回っている間、岳はベランダでのんびりと煙草を吸っていた。
そこに優一から電話がかかってきた。
マンション前の道を何台もの車が疾駆 する音と、まるで氷に触れているかのような風を身体に浴びる中、優一の震え声が最も鼓膜を震わせ、全身に鳥肌を立たせたのだった。
「ーー……安馬さんから連絡があって、兄貴が俺たちとの面会を希望してるって……」
それに対し、優一は意外にも会いたいと言ってきて、岳はひどく面喰らった。もう二度と、あの男の顔や声を見たくも聞きたくもないと、ふたりして思っていたはずなのに。いったい、どういう風の吹き回しでそんなことを言い出したのか。
しかも、優柔不断な優一にしては珍しく、意思が完全に固まっているようだった。戸惑う岳に「岳がどうしようと、俺はあの人に会うわ」と勇み立っていた。彼の声の震えは、武者震いからくるものだったのだ。
すぐには答えが出せなかった。胃のあたりから押しあがってくる不快感を抑えつけながら、「少し、考えさせてくれ」と言って半ば一方的に電話をきった。
心臓が異様なまでにばくばくと跳ね、寒いはずなのに全身から汗が噴き出していた。スマートフォンを持つ手はガタガタと震え、息が上手くできず、胸が苦しくなってきた。
……一刻も早く、千景に会いたかった。
そうして岳は、脱水まで終わった服を干さないまま、予定よりも早くマンションを出て、吉祥寺に向かったのだった。
話を終える頃には、パニック状態だった心身は落ち着きを取り戻していた。惑いはあるが、冷静になっていた。
話をしている間、千景がずっと手を握ってくれていたからだ。言葉は、いっさいなかった。代わりに、静かに傾聴してくれる姿や手のぬくもりが、岳に包み込むような安心感を与えてくれた。
そして、岳が再び黙ってから程なくして、千景はこちらの手を撫でながら、ゆっくりと口を開いた。
「君は、どうしたいんだ?」
視線がゆらりと振れた。どこへでもないところに。数秒間の沈思の末、「分からない」と口は動き、ため息が出た。
……父親は、この世で一番憎い人間だ。
身勝手な理由と衝動で妻を殺し、その躯 を遺棄し、家族の人生を滅茶苦茶にした。
もう二度と会いたくない。だから昨年の秋、仮釈放されたあの男の身元引き受けを断固として拒否したのだ。
なのに、だ。
後ろ髪を引かれるようなこの思いは、いったい何だ。靴底にへばりついて取れないガムのような、この気持ち悪い感覚は、いったい何なんだ。
……分からない。俺は、あの男に会いたいのか?
会って、どうするつもりだ? 会って何になるというんだ?
……分からない。
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