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2019年2月1日-5
昏い水底に沈んだかのように黙っていた。するとふいに「岳」と呼ぶ声がし、次の瞬間にはふわりと抱擁された。
千景の腕が、身体をやんわりと締めつけてくる。服越しに彼の体温が伝わり、身体に沁みていく。それだけのことだったが、またぞろ乱れだした心が凪いでいくのを感じた。
岳は千景を抱きしめ返した。ネイビーストライプのジャケットが皺にならない程度に握り、程よく筋肉が張った彼の背にウール地越しに触れ、柔らかなうねりのある髪を撫でる。瞑目し、ゆっくりと呼吸をすれば、心はさらに落ち着いてきた。
しばらくして、千景が訊ねてくる。
「引きずってることが、あるんじゃないか?」
「……引きずってること」
「聞きたいこと、確かめたいこと、伝えたいこと。親父さんにない?」
岳は黙考した。それはコンクリート色の泥沼に頭から潜り、何も見えない中で、手探りをするような感じだった。そうしていると、泥を掻き分けていた手の先に、何かが触れたような気がした。
「……あるのかも知れない」
何も聞きたくない、知りたくない、話したくない。……そう思ってしまえれば、楽だったのかもしれない。
けれども、そんなわけがなかった。
あるからこそ、あの男について忘れられず、無関心でいられないのだ。
身体がぞわりと粟だった。……もし、あの男に会えば、それだけで傷が抉られるだろう。そうなれば、臆病で脆弱な自分は、まともでいられるのか。これまでのように、果てのない悲しみを滾 るような怒りや憎しみに変え、狂ってしまわないだろうか。
もし、そうなってしまえば、自分はあの男と冷静に対峙する機会を、放棄することになってしまう。面と向かいながらも、その実、逃げてしまうことになるだろう。
……そうなってはいけないのだ。
知らなければならないこと、受けとめるべきことが自分にはある。そしてそれは、優一にも言えることだった。彼もそれを理解しているから、一足先に腹を括ったのだろう。
自分も覚悟を決めなければならない。
震えあがる心を堪え、父親の目と目を見て、言葉を交わす。たとえ傷ついても、一糸まとわぬ思いを明かし、自分の中でケリをつける。
それで十数年もの間、自らを硬く、重く縛りつけ、苦しめている鎖が緩められるのなら。解かれるのなら。自由になれるのなら。
そうするのは、優一でも貴久でも、千景でも、ましてやあの男でもない。
自分自身だ。
しばらくして抱擁を解き、千景から身を離す。少し息苦しい思いをさせていたようだ。彼の顔は赤らんでいたが、その表情はとても穏やかだった。
「……どうするか、決まった?」
「あぁ」
岳は頷いた。意思が固まり、曇っていた表情に日が差したように思えた。ざわざわ、もやもやとしていた胸中の風通しも良くなっていた。
千景の目が、優しく細まる。それを見て、岳は再び千景を抱きしめた。
……この人が、そばにいてくれて本当に良かった。
ひとりではきっと、覚悟を決められずにいただろう。これまでのように、親父を拒絶し、親父から逃げ続けていただろう。
この人の言葉やぬくもりがあったから、己の気持ちと向き合うことができた。勇気づけられ、決断できた。
「俺も、親父に会う」
この人と共にあり続けるためにも、俺は踏み出さなきゃならない。そう強く思った。
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