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2-1 枕投げ
3日ほど、俺は明らかに情緒不安定だった。
捜索願いを出したという母からのメールを見て、急に現実味が湧いて、本当にもう逃げ場も戻る場所もなく、失踪した者として一生生きていくことになるんだと思ったら、頭がおかしくなりそうだった。
そんな俺を、蓮はずーっと抱きしめていてくれて、取り乱しても根気よく落ち着くのを待っていてくれたり、俺が寝落ちしている間に甘いものを買ってきてくれたり……。
「さっき寝言でオレのこと呼んでたよ」
「え、ほんと?」
「嘘言ってどうすんだよ。なんかうれしくなった」
本当にうれしそうにふにゃっと笑うから、不思議だ。
きょうは落ち着いてきて、逆に、ぼーっとする時間が増えた。
部屋に流れるシティポップが、ふわふわと現実感を奪っていく。
それから、蓮にも変化があったらしい。
咳が一切出なくなったそうだ。
確かに、蓮が咳き込んでいるのは最初の夜にしか見ていなくて、毎晩眠れず外をフラフラしていたなんていうのが信じられないくらい、なんともない。
本人曰く『医者の言うことが正しかった』と。
精神的なものが原因だとしたら、俺と一緒に眠ると安心するから、咳なんか出るはずないのだと言う。
「なあ、弓弦。この記事すごい。面白いこと書いてる」
手渡してきたのは、ビジネス誌。
見開き1ページに割かれた特集の表題は『驚くべきキスの効能』。
キスが人体にもたらすポジティブな効果を、神経伝達物質やホルモンの観点から科学的に調べたというものだ。
「くちびるの刺激は、赤ちゃんが母乳を飲むところからスタートして、安心とか愛情を感じるようにできてんだって」
「へえ」
「弓弦とキスして寝たら咳出ないのは、ちゃんと理由があったんだなあ」
猫が甘えるみたいにわざと体をすり寄せながら、胴体に手を回してくる。
3日間こんな風に過ごしていたけど、嫌な感じは全然しなくて、むしろ、心地よい。
お風呂上がりのシャンプーのにおいが鼻をくすぐって、思わず蓮の髪にキスした。
「口同士じゃなくても安心効果ありそう。蓮の髪気持ちいい」
「ほんと? オレもやる」
俺の髪に手を差し込み、後ろへ梳 きながら、側頭部へ口づける。
ちゅ、ちゅ、とあえて音を立てて頭にキスしつつ、俺の手から雑誌を奪った。
そして蓮は、見えない角度で読んだあと、「ふーん」と言って雑誌を閉じた。
「なんか書いてあった?」
「うん。すごい為になった」
雑誌をローテーブルに投げ、両手で俺の顔をはさんで固定する。
「嫌だったら突き飛ばしていいからな?」
「なにが?」
聞き終わる前に、下くちびるを吸われていた。
「んっ? れ、ん……っ」
びっくりしている間に、蓮は片手を俺のあごに添え、少し口を開いて、舌を差し込んできた。
驚いてジタバタしようとしたけど、蓮は俺の体をがっちりホールドして、口の中のあちこちを舌でなぞった。
「ん、……っはぁ、」
うまく息ができなくて、すがるように背中に手を回すと、蓮は目を細めて微笑んでいた。
「可愛い」
「何するんだよ」
「情熱スイッチでもあるんだって、くちびる」
たぶん、すごく分かりやすく、ぽかんとしていたと思う。
蓮は、半開きの口にまた舌を差し込んできて、今度はゆっくりと、味わうように口の中を行き来した。
「ん、ん……っはぁ、」
「弓弦、そんな悩ましげな声出すのな」
「れんのせい……、ん」
抗議の声は飲み込まれる。
顔が熱い。ぼーっとする。蓮の吐息がちょっと熱い。
「ぁ、もうほんと……はぁっ、くるし」
ギブアップのつもりで背中をバンバン叩いたけど、蓮はちょっと顔を離すだけだった。
「情熱スイッチ? だった?」
「ん、分かんない……」
情熱の定義が分からないし、そんなもの、何年も前に失くしてしまったものな気がする。
「弓弦がその気になんないならいいけど」
「その気?」
俺が聞き返すと、蓮はそっぽを向いて、頭をカリカリとかいた。
「あー……やっぱさ、死にたくなるような精神状態になると、そういう欲とかもなくなんの?」
蓮が何を言わんとしているのかを理解して、顔が熱くなった。
「え、と。まあ、うん。そうだね。なんかごめん」
俺が来て4日。
蓮はずっと俺につきっきりで、健康な男なら必ずするであろうことも、きっとしていないはずだ。
「俺ちょっとコンビニ行ってくる。30分くらいあればいい? って聞き方は失礼か。終わったら電話して、って俺電話持ってないし。えーと」
慌てていると、じわじわと笑いをこらえていた蓮が、盛大に噴き出した。
「え、なんでオレ気遣われてんの? 好きなひと追い出してひとりでするとか、超虚しいじゃん」
「えっ……そういう話じゃなくて?」
「なんでキスの科学の話からオレ個人の性生活の話になるんだよ」
ソファの上で、押し倒された。
「やっぱ雑誌はあてになんないのかなー?」
そう言いながら、試すように俺のくちびるを吸ったりなめたりする。
「ねえ、情熱スイッチって何?」
「エッチしたくなるって書いてあった」
「は!?」
たぶん、死ぬと決めた日以来くらいの大きい声が出たと思う。
蓮はギョッとして体を起こした。
「そんな驚くなよ。しようとか言ってないだろ。スイッチ入るのかって聞いただけで」
「いや……いや、ちょっと待って頭が追いつかない」
スイッチ入るのか、って。
もし俺が『入った』とか言ったら、するつもりだったんだろうか。
その、男同士で。
たしかに蓮はこの3日間、『可愛い』『好き』『一生大事にする』と繰り返していたけれど、それはつまりそういうことか……というところまで考える余裕がなかった。
蓮とくっついているのは心地良いし安心するから気に入っているけど、それ以上というと、嫌悪感がとかじゃなくて、物理的に可能なのかで悩んでしまう。
蓮は、子供をあやすような目でこちらをのぞき込んだ。
「無理して合わせなくていいからな。オレは弓弦のこと好きだから、一緒に気持ちよくなってみたいなって思ったりするけど、弓弦が嫌ならいいし、方法もなんだろ、挿れるどうのこうのじゃなくても」
こんなにダイレクトに性の話題を出したことがないので、どう答えていいか分からず、完全に顔を背けてしまった――横を向いたら真っ赤な耳をさらすだけだというのは、重々承知だ。
「ぁ……の、蓮はさ。そういうの分かるの? 男が」
絞り出した声が口から出たのはここまでで、あとは恥ずかしすぎて言葉が出なくなってしまった。
笑われるかと思って目をつぶっていたけれど、蓮が何も言わないので、そっと様子をうかがう。
蓮はまじめな顔をして、じっとこちらを見ていた。
「知ってはいるけど分かってはいない、かな」
「ん? どういうこと?」
「実は弓弦が寝てる間にめちゃくちゃ調べたから方法は知ってるけど、それで分かったつもりにはなりたくないなって」
めちゃくちゃ調べた、という言葉で、一気にリアルさを感じてしまった。
蓮は、本当に俺のことを、普通の異性の恋人みたいに考えているのだろう。
「全然自信ないんだけど、俺」
「自信?」
「うん。だって蓮、正直モテるだろ? 女の子といっぱいしただろうし、俺、したことないから知識ゼロだし。それに俺、ほんと鬱すぎてそういう欲ゼロが1年くらい続いてたから、不能かも。あとはまあ、そうは言っても男じゃんってところで、俺の裸見たところで蓮が勃つとも限らないからそういう面でもなんにも自信ないけど」
蓮は、まじめな顔のままふるふると首を横に振った。
「自信なんていらないだろ。うまくできなかったらまあそれはそれでいいし、それは弓弦もオレも。お互い様で」
「……蓮は優しいな」
ぽつっとつぶやくと、蓮はぱっと目を見開いて、そのまま固まってしまった。
「ん? 蓮?」
しばらく驚いた表情でこちらを見たあと、盛大なため息とともにおでこを胸のあたりにくっつけてきた。
「煽 った。弓弦が煽った。オレの我慢を暴力的に踏みにじる弓弦が可愛い」
「は?」
「やだったら蹴り飛ばしていいから」
そう言うなり蓮は、俺の口にねっとりと舌をねじ込んだ。
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